-戦争の時代の小学生-
田辺久良さん(昭和8年生まれ 彦根市)
戦争の時代に生まれ、子ども時代を過ごした田辺さん。
戦果を知らせるラジオ放送に心を躍らせました。
「戦果を伝える『大本営発表』ゆうのに非常に関心があってな。軍艦マーチが流れると『あ、大本営発表や』とラジオに釘付けになって聞いていたね。」
太平洋戦争の始まった年、昭和16年4月、小学校は国民学校という名称に変わり、田辺さんは愛知川国民学校の3年生に進級しました。
田辺さんは軍隊式の訓練のことを今でも鮮明に覚えています。
「小学生でも、運動場で分列行進ゆうて、隊を組んで行進した。音楽隊の太鼓やらラッパに合わせてやるわけや。」
子どもたちにはそれぞれ役割が与えられていました。田辺さんは、通信隊の一員として手旗信号やモールス信号を練習しました。
「手旗信号は300mか400m離れた隣の集落の茅葺きの屋根に上がって、交信やったりした。他には、木製の飛行機をつくる航空隊や担架をつくったりする防護隊があった。訓練は全部授業中にあった。当時は小学生でもそんな訓練を授業に代わってやらされたんや。」
「国語や地理などのほか、「修身」「勤労」という科目があった。「勤労」は「家庭での農作業の手伝いや学校の運動場の一部にさつまいもやら植えたからその世話の評価かな」と田辺さん。
もののない時代。消しゴムやえんぴつ1本でも大切に使いました。靴下の代わりにはいていた足袋は、破れるとお母さんがつくろってくれました。
「母親の温かい愛情がうれしく、身に染みて今でも思い出すんや。」
昭和20年3月、愛知川国民学校を卒業後、八日市中学校に入学しました。
学校では授業よりも、出征兵士の家族のもとで農作業を手伝うことがほとんどだったといいます。
「当時は、何の疑いもなく、自分の将来は軍隊に入るしかないと思っていた」
と語る田辺さんですが、中学1年生の夏、ようやく戦争は終わりました。