滋賀県には、大阪市内の国民学校の児童約1万1千人が家族と離れ、疎開してきました。
滋賀県への疎開は昭和19年8月31日から行われ、大阪市内の東区・南区(現在の中央区)、浪速区、北区の子どもたちが県内各地にやってきました。また、翌年には四国へ疎開していた港区・此花区の子どもたちも加わりました。
玉八さんは寮母として、南大江国民学校の子どもたちの世話をしました
集団疎開した子どもたちの生活の様子を、引率の教師がつづった文集です。
現在の甲賀市甲南町には、大阪市立稲荷国民学校3・4年生が疎開していました。子どもたちのことを心配し手紙を送る保護者に対して、個別の返事が困難なことから、4年では担当の先生が文集を作成し、疎開してまもない頃の子どもたちの生活のようすがエッセイ風に描かれています。保護者へ配布された通信は、大阪大空襲でほとんど焼けてしまったため、現存するのは寮母さんが持っていた第2号のみです。
現在の甲賀市甲南町に集団疎開した大阪市立稲荷国民学校4年の薗田邦子さんにお兄さんから送られた昭和19年12月21日付のハガキ(大阪府 園木邦子さん提供)
「その後、おまえもだいぶ元気とのこと、昨日、お母さんに聞いて兄さんも大変安心しました。どうかこれからも元気でおとなしく暮らして下さい。さてこの間は(18日)久しぶりで大阪に空襲警報があり敵機が来ましたが、爆弾は日本の飛行機や高射砲に追われて落とすこともできず逃げました。ラジオによると、大阪を逃げた敵機は滋賀の方へ行ったそうですが、お前たちの方は変わりありませんでしたか。では、いよいよ寒くなりますが身体に気をつけなさい。」(※本文を読みやすいように一部改めて表記)