-大阪・栄国民学校疎開児童の寮母さん-
山口とし子さん(大正13年生まれ 守山市)
愛知県出身の山口さんは、縁あって、昭和19年9月から、大津市膳所のお寺で生活する大阪・栄国民学校の3年生から6年生の疎開児童約50人の寮母さんになりました。
「晩にな、お母さんに会いたい、会いたいゆうて泣いてましたわ。」という子どもたちでしたが、気さくな山口さんにすぐにうち解けたようです。
「『先生、歌、歌とて』言われて、ほんで、子どもみんな寝かして、『ここはお国の何百里』ゆうて歌とてました。ほんなら、みんな知らん間にスーッと寝てたわ。」
昭和20年3月、子どもたちが暮らすあたりも空襲の危険が迫り、守山へ移ることになり、山口さんも子どもたちと一緒に行きました。
守山では約20人の子どもたちの食事の世話などをする山口さんの悩みの種はシラミ。
「かゆうて、かゆうて掻きまくるし、子どもらの衣類を川で洗うと、白いシラミがワーッと浮いてきたりしてな。」
守山は蛍の名所。子どもたちと一緒に近くの川で蛍とりを楽しみました。一方で、悲しいできごともありました。
「3月の大阪の空襲の時に、世話してた子の親が両親とも死なはってな。面会日にその子の親は来はらへんわな。『うちのお母さん、来はらへんわな。なんでやろ』ゆうので、『なんでやろう』ゆうて、ごまかしてな。あの時はかわいそうやってな。忘れられんな。」
それから、終戦の日を迎え、子どもたちが大阪へ帰るまで見届けた山口さんは、「二十歳そこそこで、ようがんばったな。忘れられへんわ」と当時を振り返ります。