-軍事産業に転換しなければならなかった繊維産業-
牧野斉さん(大正13年生まれ 彦根市)
松本晴夫さん(大正14年生まれ 彦根市)
赤沢栄子さん(昭和5年生まれ 東近江市)
近江実習工業学校(現在の近江高等学校)を繰り上げ卒業した牧野斉さんと松本晴夫さんは、昭和18年1月2日、近江絹糸に入社しました。
その直後に軍需工場に転換した近江絹糸は、「近江航空」を設立し、ゼロ戦※と、呉航空廠が発注する海軍中型爆撃機の翼の一部、胴体の骨、座席などの製造を始めました。
「人繊(化学)工場の機械が運び出され、かわって飛行機部品製造のための作業台が運び込まれた」と牧野さんはいいます。
入社直後に名古屋の三菱重工業へ研修に派遣された松本さんは、帰社後は製品検査の仕事に従事します。
作業のために、多くの学生も動員されました。
淡海高等女学校(現在の淡海書道文化専門学校)2年生の赤沢栄子さんもまた、昭和20年2月から寮生活を送りながら、ドリルでジュラルミン板などに穴をあける作業に従事しました。
昭和20年になると、近江航空は独自に「ゼロ戦」を組み立てることになり、1機目は20年の6月頃に完成し、ブラスバンドに送られて船で琵琶湖沖に運ばれたそうです。
※ 「ゼロ戦」は、日本海軍の主力戦闘機零(れい)式艦上戦闘機の略称。高性能を誇り、戦争前半には多くの敵機を撃墜しました。しかしアメリカ軍にその性能を研究され、対抗機として製造されたグラマンにその多くが撃墜されるようになりました。戦時中に約1万900機がつくられましたが、終戦時には約1000機しか残っていませんでした。