-崇福寺山中の防空壕-
中西栄太郎さん(大正8年生まれ 大津市)
昭和19年、中西栄太郎さんは大津海軍航空隊(大津空)へ、航空整備を教えるために配属されました。
しかし、昭和20年の春頃から、中西さんは新兵を引率し、滋賀里山麓部の防空壕掘りに従事することになりました。
掘り進めた防空壕は7〜8 本あり、そのうち2本はトンネルのように貫通しました。その1本の左右には爆風をさけるために部屋をつくる計画があったといいますから、巨大な防空壕をつくる予定だったようです。
この防空壕の目的は、「米軍が本土上陸したときには、多くの兵隊は和歌山県田辺市まで移動することになっていたが、基地に残った兵隊のための防空壕ではなかったのか」と中西さんは推測しています。