-陶器で作られた兵器-
奥田博さん(昭和5年生まれ 甲賀市[信楽町])
中島豊子さん(昭和6年生まれ 京都市)
信楽は炭火鉢の生産が盛んな町でしたが、太平洋戦争が始まると火鉢づくりができなくなり、陶器製の地雷や手榴弾の製造を始めました。奥田博さんのお父さんは、数軒の同業者とともに地雷づくりの会社を設立し、博さん自身も信楽国民学校(小学校)を卒業すると父親の仕事を手伝うようになりました。
地雷は伝統の登り窯で焼きました。
1300度の 高温で焼くので陶器といっても金属に近い固さになったそうです。1つの登り窯で月に2千個焼くことが目標とされ、信楽全体で月1万6千個が製造されていた そうです。
地雷づくりには、人手不足から国民学校高等科の生徒たちも手伝いにきました。
昭和19年4月、京都から雲井国民学校の高等科1年生に転入した中島豊子さんもまた、他の高等科の生徒たちとともに、地雷を焼くための割木運びの作業に従事しました。
そして、翌年高等科2年生になると、男の子は割木運び、女の子は地雷製造の手伝いに動員されました。
型取りした地雷をサンドペーパーで整えたり、それを天日で乾かす手伝いをしたりしました。