-東レの爆撃-
管野サトさん(大正4年生まれ)
塩貝滋子さん(昭和17生まれ)大津市
管野サトさんは、昭和15年、石山の東洋レーヨン(東レ)に勤める定三さんと結婚しました。
3年後の昭和18年5月、娘の滋子さんが1歳3ヵ月の時に定三さんに召集令状がきました。
そして、日中戦争に従軍した定三さんは、半年後の11月に戦死しました。
その1年後、サトさんは東レへ勤務するようになりました。
「31年間勤めさせてもらいましたが、最初の20年間は給食の仕事をしていました。私が行った時分はまだご飯でしたけどね。だんだんひどなってきたらね、ジャガイモを蒸してね。そのほかは、おみおつけだけでした。勤務時間はいちばん長い時は1日13時間、百何日も休みなく勤めました。」とサトさんは語ります。
前略
本日は小包確かに頂戴致しました。 何卒御安心願います。相変らず元気でやって居りますから他事乍ら御休心下さい。出来得る限りの御奉公をする覚悟で居りますから小生のことは御心配無く、銃後の護りを固く御願い致します。 先ずは右御無迄皆々様御身御自愛されるよう申し上げます。 早々
前略
その後変わり無き事と存じます。小生も元気で軍務に精励して居りますので他事乍らご安心下さい。滋子も一人足きで目を放せ無くなったことと存じます。田舎よりの便りによれば元気で居るとの事何よりと存じます。父が居無くとも行儀の良い子に育てて下さい。御願いします。尚銃後の守りを充分にして呉れる様呉々も頼みます。時節柄御自愛されるよう。先ずは近況の知らせ迄 早々
昭和20年7月、サトさんの勤める東レが爆撃され、サトさんもケガをします。
その様子を当時3歳だった滋子さんは、
「母が歩いて家に帰ってきて、ほして血が出てて、家の座敷に寝てたんです。その時たまたま神戸に住んでいる叔父が来てくれてはって、『えらいこっちゃあ、えらいこっちゃあ』いうてはりました。その叔父の言葉と情景はしっかり覚えています。」
と語ります。