-空襲の犠牲になった子どもたち-
山田みよさん(大正2年生まれ 東近江市[永源寺町])
終戦直前に二人の子どもを空襲で失った山田みよさんが、生前に当時の悲しい体験を語ってくれました。
「あれは、終戦の年の7月30日、午前8時頃のことや。
突然、空襲警報のサイレンが鳴ったんや。
この朝も、二人の子ども、久司と忠男は集会所前の広場へラジオ体操に行っていた。
久司は数えで9つ(8歳)、忠男は4つ(3歳)やった。
二人はサイレンが鳴ったので走って家に帰ってきよった。
その時にはアメリカの戦闘機が2,3機こちらを向いて急降下していた。
「危ない、危ない、早よう家の中に入り」と叫び、子どもらが転がり込むように家の中に入って来よった時や。
バリバリバリッと音がして、目の前で久司と忠男がひっくり返った。
私は何が何やらわからなかった。
忠男は即死やった。
まだ息があった久司を近所の人が戸板に乗せて、病院まで運んで行った。
はじめのうちは元気にしゃべっていたらしいが、まもなく行く道で息が絶えたとか。
聞くところによると、村の近くに来ていた兵隊さんが、空襲になったので私の家の前にあった竹藪に隠れたらしいのや。
その兵隊さんを狙ったものらしい。
久司と忠男は、家の中で、私の目の前で撃たれて死んだ。
帰って来なかったらよかったんや。
まるで、死ぬために家に帰って来よったようなもんやった。」