-金属供出の話-
小川たづさん(大正13年生まれ 大津市)
羽田昌次さん(昭和9年生まれ 東近江市[永源寺町])
戦争が長期化すると、軍艦や武器をつくる材料となる金属が不足し、官公庁の金属製品が回収されるのと同時に、工場や家庭の金属製品の提供運動が繰り広げられました。
このため生活の中から金属製品が減り、陶器などでつくられた「代用品」とよばれる製品に変わっていきました。
小川たづさんの家には今もカマドが残っています。
終戦直前までは、そのカマドにのせていた大釜がありましたが、町内会で「大釜を供出しなかったら国賊や」などといわれ、とうとう供出することになったそうです。
大釜は県庁前の広場にほかの金属製品とともにおかれていたそうですが、終戦後返してもらおうと思い、県庁前の広場に行ったそうですが、その時には大釜はなかったということです。
羽田昌次さんも終戦の少し前、家にあった真ちゅう製の宣徳火鉢を供出しました。
その火鉢は大切な行事に使うもので、お正月でも使わず、よほどのおめでたいことなどのときに使うものでした。
木製の台をはずし、火鉢の部分だけを近くのお寺へ持っていきました。そこには、あちこちの家庭から供出された金属類が山のように積まれていました。火鉢は、その場で村の人が金槌でたたいて壊したそうです。
羽田さんは「たぶん、二度と使えないように、また横流ししたり持ちさられないようにするためだった」と思っています。