-畑仕事がめちゃめちゃつらかった-
大海幸夫さん(昭和10年生まれ 京都市)
昭和19年9月、大阪市立稲荷国民学校4年生の大海幸夫さんは、 甲南町(現在の甲賀市)へ集団疎開しました。
駅で降りて寮までの3キロばかりの道のり、幸夫さんはとても不安な気持ちになったと言います。
まもなく冬を迎え、寒さにふるえながら、寮から遠い山の中腹にある井戸まで水くみに行かなければならない毎日。
乏しい食糧のため、自給自足ということで、寮のまわりの荒れ地を開墾して畑も作りました。草刈り、たい肥づくりも経験しました。そしてサツマイモ、ジャガイモ、トマト、なすびなどを育て、おやつに太陽の熱でアツアツになったトマトを食べたりしました。
「学校へ行っている間は天国みたいなもんですね。何も作業せずに授業を受けられるわけですから。でも、寮に帰ると農作業が待っとって。そして、いつも腹すかしてて…」とつらかった日々のことを話してくれました。
そして、昭和20年8月終戦。9月にお父さんに連れられ大阪へもどった幸夫さん。
実家は3月13日の空襲で全焼、親戚の家にむかう幸夫さんが見たのは、大阪駅から難波までが見渡せるほど一面焼け野原となった大阪のまちでした。