-機銃掃射の犠牲となったお母さん-
北川庄治さん(昭和12年生まれ 近江八幡市)
昭和20年7月30日、朝から出ていた空襲警報が昼になって解除になり、当時桐原国民学校の3年生だった北川庄治さんの母・千枝さんは安心して田んぼに出かけました。
田んぼは国鉄の桐原村(現近江八幡市)東光寺踏切の西側にありました。
午後3時頃、突如として西南にある鏡山の方から2機の艦載機が現れ、田んぼ脇の線路を走行していた列車に機銃掃射で襲いかかりました。
列車は兵隊で満杯で、それを狙った一連の機銃弾の一発が列車付近にいた千枝さんを背後から襲ったのでした。周囲の地面には、機銃弾に よって50cm程の大きな穴が開いていました。
空襲があった時、北川さんはおばあさんと一緒に家の中にいましたが、自分の家が撃たれたと錯覚するほどの大きな音を聞いたと言います。
杲(ひので)英千代さん(大正9年生まれ 野洲市)
空襲警報が解除され安心した杲さんは、職場である桐原国民学校を後にし線路沿いの道を自転車で家に向かいました。
学校を出ると、突如頭上に2機の艦載機が現れ、線路を走行中の列車が機銃掃射に遭う現場に遭遇しました。
機関部を損傷した列車は線路上に停止し、機銃掃射で狙われたその列車からは銃撃を受けた人々が殺虫剤で蟻を殺したようにバタバタと落ちてきたそうです。
杲さんはとっさに大豆畑に飛び込み、頭を引いてじっと隠れていたので怪我はありませんでしたが、畑から首をだして目にしたその恐ろしい光景に震えが止まらなかったといいます。
真っ青な顔で震えながら家に帰った杲さんにお母さんが言った「よう生きて帰ったなあ」という言葉は忘れられないそうです。杲さんが飛び込んだ場所と列車との距離は30mもありませんでした。