-操縦士の顔まで見えた恐怖の体験-
森井とみのさん(昭和2年生まれ 大阪市)
西木とし子さん(大正13年生まれ 守山市)
宇野道雄さん(昭和10年生まれ 彦根市)
中主(今の野洲市)に暮らす森井とみのさんは、片道数時間をかけて京都の保健婦養成学校に通っていました。
昭和20年7月30日、とみのさんはこの日学校が空襲警報発令のため休校になったことを、学校へ行って初めて知りました。
がっかりしたとみのさんが、自宅へ帰るために列車に乗ると、偶然向かいの席に座ったのは兵隊さんでした。
山科駅で「あの飛行機、この汽車狙うてるよ」という兵隊さんの言葉に、窓の外をみると豆粒くらいの3機の飛行機が見えました。ずっと列車についてくる飛行機の姿が急に見えなくなったのは守山駅に到着した頃でした。
そして、急にバリバリーッという機銃掃射が始まりました。兵士の顔まではっきりみえるくらいの低空からの激しい攻撃でした。
向かいの席の兵隊さんの
「出たらあかん、絶対流れ弾にやられるから。座っている椅子を窓にたてかけなさい」「頭下げて!」
というアドバイスに従い、窓からの攻撃をしのいだとみのさんは、幸いにも無事に自宅に帰ることができました。
しかし、とみのさんは多くの乗客が負傷した状況で怖くなって手当ができなかったことを今も悔やんでいます。
守山駅前近くに住む西木とし子さんは、この日、空襲警報のサイレンにもいつものことと驚くことはありませんでした。しかし、家の裏に出たとし子さんは、飛行機の爆音の音がいつもと違うことに気づきました。
まもなく、 「飛行機のマークや操縦席のアメリカ兵の顔までハッキリ見えました。」というくらい超低空で飛ぶアメリカの戦闘機に遭遇した西木さん。
あまりの恐ろしさに お母さんと2人、近くの柿の木の下にへばりついたそうです。
ようやく飛行機の爆音がやみ、表の道にでると守山駅から負傷者が歩いていました。近くの医院だけでは収容しきれない負傷者を自宅に受け入れて、とし子さんは、お母さんと妹さんの3人で世話をしました。その夜、負傷者たちは病院に移されましたが、畳の上や土間には流れるほどの負傷者の血が残っていました。
宇野道雄さんは、当時10歳でした。その日、牛乳の配給をもらいにいく途中、守山駅で停車中の列車が、アメリカのグラマン機に襲撃される現場に遭遇しました。
「ちょうど、駅の改札で、身を乗り出した瞬間、機銃掃射がはじまったんです。もう、突然強烈な音が降ってくるような気がしました。」
宇野さんは、牛乳をもらうことを忘れ家に帰りました。宇野さんの家の隣の病院には多くの負傷者が運ばれ、苦しむ悲鳴が聞こえたそうです。