-学童疎開の寮母さん-
吉坂ちゑさん(大正10年生まれ 甲賀市)
昭和19年9月1日、現在の甲賀市甲南町へ、大阪市立稲荷国民学校4年生が集団疎開してきました。そのうち24名の女の子は大きな一軒家の二階で共同生活をおくりました。
吉坂ちゑさんは、女の子たちの寮母として、結婚するまでの7ヵ月間をいっしょに過ごしました。
「私は先生の補佐役で、食事の準備をしたり、順番に耳の掃除や爪切りしたり、ほんま、家庭的に一生懸命してあげたんですわ。」
家族と離れ心細い子どもたちを親身に世話する吉坂さん。保護者からはとても家庭的な寮生活を送っていると感謝されたそうです。
子どもたちのためにがんばる吉坂さんも、まだ23歳の若い寮母さん。
「その頃、洗濯した小川がありますねや。寒い冬でも素手で24人分の 洗濯物を『よう洗ったな』と思て、今でも涙が出てきます。」
と、忘れられないつらい思い出もあります。
「そやけどかわいいもんや。もう家族といっしょですのでね。自分の妹がにわかに増えたなというかんじ。お母ちゃんのはたにいたらもっと甘えられるのになと思うので、できるだけのことはしてあげようと思てました。」
その後も、吉坂さんのもとを訪ねる学童疎開の子どもたち。
70歳を過ぎた子どもたちは、今でも、優しかった吉坂さんのことを「お姉ちゃん」と呼びます。60年前と同じように。
初めての面会日の記念写真
前から3列目、右から3人目の白いエリのエプロンをしているのが吉坂ちゑさん。
保護者からの手紙
吉坂さんへのお礼状。面会で寮を訪ねたときのことや、大阪空襲への不安などが書かれている。