-昭和19年の国民学校1年生-
松村武温さん(昭和12年生まれ 米原市)
昭和16年ぐらいまで、米原には、ウィリアム・ヴォーリズが設計したキリスト教の幼稚園がありました。そこに、園児のお姉ちゃんについて遊びにいっていたという松村さん。
「砂場やらありました。入園していない小さい者でも拒むゆうことはなかった。そういう時代でした。お遊戯やとか歌とか、いろいろなことをしてはりました。」
昭和19年、米原国民学校(今の米原小学校)に入学しましたが、その頃から空襲警報が鳴ると、裏山に避難するようになりました。
「学校へ、必ず家からみかん箱を持っていって、空襲警報が鳴ったら、そこへ教科書やら筆箱やら学校で使うものを入れて、学校の裏の山へ皆逃げるんですよ。先生も一緒にね。裏山で、みかん箱を机代わりにしてたんですけど、藪の中なのでほとんど教えてもらわなかったと思うけどね。」
ひんぱんに空襲警報が鳴るようになり、灯火管制のなか、枕元には防空ずきんを置いて夜中の空襲に備え、家の庭には防空壕がつくられました。
食糧難のため、学校の運動場は芋畑になり、体育の授業はできない状態でした。
「野原へ行って、ノビルとか食べられる植物は、よう摘んできました。いろんなん食べました。学校から帰ると食糧を調達に行くようなもんですわ。」
そして、昭和20年8月15日、ラジオから流れてくる玉音放送は、よくわからなかったといいます。
「あとで戦争は終わったんやと、親から聞かされました。それ以降、空襲警報もなかったし、もうのすごう貧しかったですけど、ホッとした感じですわね。」
それが、もうすぐ8歳になる少年の心境でした。