-今夜も空襲会社の敷地内に爆弾が落下した-
西村登志さん(大正15年生まれ 蒲生郡日野町)
昭和19年7月、日野高等女学校専攻科学生だった西村さんは、学徒動員で、飛行機の脚を作っていた名古屋の工場へ行きました。
工場の敷地内にあった寮には、滋賀県の5つの高等女学校の生徒400人ぐらいが生活していました。
その頃、西村さんがつけていた日記には、たびたびの空襲警報に眠りを覚まされた様子などが書かれています。
「3月12日
13日に到らんとする11時半頃、夜間の静けさを破った警報のひびき。
1度も経験しなかったほどの空襲警報。近日になかった待避命令。
今日は大編隊だぞと思ふ間もなく敵機来襲。
低空を飛行する醜翼の音。高射砲の雷の如きうなり。風の音。物凄い物だ。
半鐘は50回位にわたり鳴りひびく。どうか落とさんといいのにと祈り乍ら、壕の中で寒さと恐ろしさの為無気味なほど緊張している。
先生は、落ちたらすぐに飛び出して消すんだぞと言って励ましておられる。
3時半頃、解除。ほっとして壕より出る。東・西・北の空は炎をはいて真っ赤だ。ちくしょう。いかりとくやしさで一杯だ。
新聞に依ると130機来襲した。その被害は大きく昭和区・中区・三菱2万・名古屋22万戸の内、7万戸は全焼したときく。
きっときっとこの仇は討たなくておくものか。強い敵愾心にもへ乍ら、1日過ごした。」