-ややこ産んでるさかい、終戦は知らんてた-
西川よのさん(大正13年生まれ 蒲生郡日野町)
よのさんは、昭和15年、日野高等女学校4年生(16歳)の時に仮祝言をあげ、おばあさんの里に嫁ぎました。
翌年の3月に卒業し、4月5日桜の中をトラック2台ハイヤー3台で、野出橋を渡りました。
戦争が始まった直後、17才で、長女を産みました。
兵士を増やせと『産めよ増やせよ』の時代であり、終戦までに毎年、4人の子を出産しました。
4人目を妊娠中の昭和20年、夫に召集令状がきました。
残されたよのさんは幼い3人の子どもたちと大きなおなかを抱えながら、松根油採り・馬の餌の供出と、必死になって留守を守りました。
「子どもは自分が場こしらえて、1人で産んだ。妊娠したら、 子どもが栄養を摂らるやろ。そやさかい、すぐおっぱい出ぇへんようになるねん。毎年毎年4人も産んだから、体も大変やった。ほんでその時分、妊娠してても、じゃこの頭1つないやろ。米も麦も菜種もじゃがいももさつまいももみんな出さんならんねん。」
4人目は、未熟児で、出産直後に亡くなり、ほどなく戦争は終わりました。
「戦争は、絶対してほしくない。」よのさんの願いです。