-雨あられのように焼夷弾みたいなんが降ってきたわ-
灰谷登志子さん(大正13年生まれ 東近江市)
昭和20年4月10日、引っ越したばかりの夜、灰谷さんは、 東京豊島区の大塚で空襲に遭いました。
「晩の9時頃空襲よ。警防団の人が、皆出なさい、避難しなさい言わはるもんで、それこそ着の身着のままで外へ出た。行ったばっかりで地理がわからんで、とにかく皆が行かはる方へどんどんどんどん歩いて行ったんよ。」
たくさんのB29が、雨あられのように焼夷弾を落としていきました。あたりは火の海で、灰谷さんは「こんなとこで死んでられん」と思って、炎の中を周りの人たちと一緒に、必死に逃れていきました。
やっと空襲が終わった頃には朝になっていて、灰谷さんは埼玉まで行っていました。
「大塚へ帰ってみたら、借りたばっかりの家は焼けてしもて、 着替え1枚あらへんようになった。あたりも焼け野原で何にもあらへん。そこで亡くなってる子どもやら大人も、真っ黒よ。黒い人形のようになって、男も女も 全然わからへん。それが公園に富士山のようにして積んであるの。身内がいいひんようになった人は、名前呼んで、ワンワン泣きわめいてはんねん。ほんなもん、地獄やで。」
何度も機銃掃射を受ける汽車に乗って滋賀県に帰ってくると、 八日市飛行場近くにある家は将校の宿舎となっており、灰谷さんは、飛行隊隊長らの食事の世話をしていて終戦を迎えました。