-水口高等女学校での真綿づくり-
上村清子さん(昭和3年生まれ 甲賀市)
昭和15年、水口高等女学校に入学した上村さんでしたが、戦時下の学校生活は、だんだんと学業より農作業など勤労奉仕が優先されるようになりました。
「1、2年生の頃は絵も字も書いたけれど、英語の授業なんかは2年生まででした。作業の多い学生生活でした。」
そして、上村さんが5年生になった昭和19年4月、学校は生徒たちによる真綿づくりの場となりました。
「5年生になったら、勉強は全然ありません、真綿づくりばっかりでした。3年から5年は真綿づくり、 ほんで1年、2年は繭の炊き番なんです。もう、全員でやりました。」
真綿はパラシュートになるのだと上村さんたちは聞かされました。
「学校の廊下には全部ダァ〜とタライが並んでました。みんなタライの前に腰掛けてやってました。だから教室は空っぽ。水をタライに入れて、炊いた繭をタライに浮かべて、それを一つずつむいて、ほんで、木で作った枠にバァと引っぱって掛けていきますねん。掛けると真綿がビヤァと広がるんです。繭一つでハンカチぐらいの大きさの真綿がとれます。」
廊下に並んで真綿をとるようす
(「写真週報」三百四十号 昭和十九年九月二七日号より、東近江市久保滋さん提供)
朝から夕方までのつらい作業を続ける上村さんたち。そんな生徒たちの心を慰めるため、先生たちはBGMに世界の名曲を流してくれました。
「その当時は軍歌ばっかりやったけど、『それではあかん』いうて、気持ちをほぐすために、世界の名曲をレコードで流さはった。ただ作業だけやったらでけへんでしょ。先生が『これはカルメンというのや』と言わはった。アメリカとかイギリスの歌はぜんぜんだめになって、世界の名曲もイタリアとかドイツの曲になって、ほんでにカルメンが流されてたんだと思います。」