-中部軍管下第一回防空監視競技会優勝-
宇野岩男さん(大正15年生まれ 草津市)
高島市(高島町)の農家の4男坊として生まれた岩男さんは、昭和17 年、青年学校在学中に防空監視哨員に抜擢されて、終戦の日まで防空監視哨員の任務に携わりました。
防空監視哨員は見張り台に上がり、双眼鏡で敵機が来るのを見張ります。
敵機の気配を感じたら、すぐさま監視哨情報通信用紙に時間と飛行の機種類、 飛んでいく方向を記入し、警察に電話で知らせるのです。
そして、その知らせが、やがて役場にとどき、空襲警報のベルが鳴らされるという仕組みです。
防空監視哨員の任務は4日に一度、24時間勤務で行われました。
農業をやりながらの仕事はかなり辛かったと岩男さんは言います。
けれど、岩男さんは、監視哨員の仕事に誇りを持って精進しました。
昭和19年9月、防空監視哨員の日頃の成果を競う第一回防空監視協議会が開催され、岩男さんは滋賀県代表に選ばれ、中部軍(山口県から静岡県)の大会で見事一位の座に輝いたのでした。
そして、この大会は戦況悪化と共に、2度と開催されることはなく、岩男さんは唯一人の優勝者となりました。
敵機の詳細が詳しく記入できるようになっている監視哨情報通信用紙。
しかし実際は敵・味方を見分けることは容易ではなく、用紙には 「敵味方不明の濁音が○○方面にいった」と書く場合がほとんどだったそうです。
けれど、終戦間近になると、飛んでくるのは敵機ばかりだったそうです。
岩男さんが、監視哨に備え付けてあった、極秘友軍機便覧を内緒で墨で書き写した物。
便覧には日本の飛行機が全て書いてあって、岩男さんは家に帰ってからもこれを見て勉強しました。
中部軍管下第1回防空監視競技会1等賞の賞状と景品B29の模型
防空監視員の功績がみとめられてか、岩男さんには召集令状はなかなかきませんでした。
そして、なぜか、終戦後のある日、岩男さんの元に、右の通達書が届いたのでした。そのため、岩男さんは終戦後も、召集があると信じ、手旗信号の練習をしたと言います。