-彦根工業学校での弾丸づくり-
外海(とのがい)金太郎さん(昭和6年生まれ 彦根市)
安田吉右衛門さん(昭和4年生まれ 近江八幡市[安土町])
昭和20年、彦根工業学校(現・滋賀県立彦根工業高等学校) 応用化学科3年生の外海さん。戦争が終わると、機械科の生徒たちがつくっていた砲弾を記念に持ち帰りました。
昭和20年の初め、機械科では、実習室を利用して、機関砲の弾丸づくりが始まりました。
砲弾づくりは、機械科の生徒が2交替で担当。
「特攻隊と称して昼夜フル稼働」していたといいます。
応用化学科の外海さんは、砲弾を入れるための木箱づくりに携わりました。建築科では、ベニヤ板の飛行機を製作していたそうです。
同時期に建築科にいた安田さんは、「松下産業言うてたわ。いわゆる軍事工場やな、学園工場ちゅうのかな。んー、、、海軍の指定の軍事工場になって、ほれから、あの、30mmの機関砲の弾こしらえてましたわ。ちょうど先だけこしらえまんねや。」と語っています。
「勉強どころやなかったですね」という外海さんは、終戦当時15歳。今の中学生・高校生にあたる世代が、軍需産業の労働力の一翼を担っていたことを物語るエピソードです。