-道連れになった歩けないおばあさんを背負い逃避行-
大野黎治良さん(昭和2年生まれ 甲賀市)
昭和17年、国民学校高等科を卒業した大野さんは、14才で1人、朝鮮に渡り、化学肥料工場に就職しました。
昭和20年8月15日の昼頃、突然、異常なサイレンが鳴り響き、戦争が終結したことを知らされました。会社はソ連の監視下に入り、大野さんは、家も仕事も失いました。
マイナス20度にもなる中で難民生活を強いられ、生きるために農家の手伝いや死体運搬の仕事にも行きました。
大流行した発疹チフスの高熱がやっと治まった大野さんは、引き揚げ団の人たちに紛れ込み、病み上がりの体で、道連れになった歩けないおばあさんを背負って、38度線を越えるまではと山の中を歩き続けました。何度も略奪に遭い、足も腫れて、歩こうとしたら頭のてっぺんまで痛みが走ります。仲間ともはぐれてしまいました。
「ああ、もう、足が動かへん。わしはあのぽつんと浮かんでる雲みたいに1人残されてしもた。」
それでも、思い直して必死になって歩き続け、背中のおばあさんとともにようやく38度線にたどり着きました。
ソ連兵による身体検査が終わった後、「ホロショー」とにっこりした大野さんに、ソ連兵も「ニーホロショー」と答え、大野さんのおしりを軽くたたいていきました。「元気で帰れという意味やろな。」
東の方を見ると、星条旗が翻っていました。
昭和21年6月、大野さんは4年ぶりに日本に帰り着きました。