-キスカ島からの脱出-
高木新一さん(大正11年生まれ 高島市)
高木さんは、役場からの勧誘で海軍を志願し、昭和17年5月に、舞鶴海兵団に入団しました。
その後、海軍砲術学校で高射砲の訓練を受けた高木さんは、アリューシャン列島のキスカ島へ向かう部隊へ配属され、昭和18年2月、キスカ島の飛行場警備のために派遣されました。
「キスカ島ゆうのは、ツンドラ地帯で、夏でも地面の30センチ下からは凍っていて、作物は採れないんです。朝が早うてね、夜明けはだいたい1時頃。夕暮れは普通やけど。ほて、6月、7月は霧の日が多いんです。」
当時キスカ島には、高木さんたちの部隊のほか、飛行場設営部隊や陸軍の部隊などが駐留していました。まもなく、この地域(北太平洋地域)への連合軍の攻撃が始まりました。5月には、キスカ島の西に位置するアッツ島は連合軍の猛攻を受け、日本軍守備隊は「玉砕」しました。敵に降伏することなく最後まで戦って全滅するということを「玉砕」と表現しましたが、アッツ島の「玉砕」が公式に発表された最初の「玉砕」でした。
アッツ島が占領されると、次はキスカ島への攻撃が激しくなっていきました。
「だんだん攻撃が激しくなってくると、人間今度は恐怖心にあおられてくる。恐怖心でもう、ほうけたようになるんです。『キスカぼけ』『キスカぼけ』ゆうてました。」
猛攻にさらされる高木さんたちへ、7月上旬転進命令が下りました。しかし、なかなか迎えの船が到着せず、玉砕を覚悟する高木さんたちでしたが、待ちに待った日がきました。
「7月29日、今日の昼までに入港するゆう連絡が入ったんです。その朝、急遽準備して集合場所に向かいました。スーッと湾口の霧が晴れてきて、船がマストの上まで見えてきたんです。『わあ、入ってきた、入ってきた』ゆうてね。」
その時の気持ちを高木さんは次のように語ってくれました。
「その時は、ほんまに5200人が、言葉に言い表せないくらいの喜びでいっぱいでした。『バンザイ、バンザイ』ゆうてね。」