-関東軍特殊無線情報隊の隊員として-
平野喜三さん(大正9年生まれ 大津市)
平野さんは、昭和15年、電気通信機器を扱う専門家として徴集され、関東軍特殊無線情報隊に配属されました。そして、昭和16年1月から長春(新京)の第12特殊無線情報隊で情報収集活動の教育訓練を受け、その後ロシア国境で情報収集の任務につきました。
「黒河省の漠河(バッカ)というところがあるのですが、そこがスパイの本拠地で、満洲里(マンシュウリ)から、漠河まで馬に乗って一人旅ですよ。600キロは離れているかな。食事は携帯食糧を持っていました。移動の時の寝泊まりはテントです。でも眠れないですよ。夜になるとオオカミが来ることもあります。」
単独行動は心細く、寂しいものだったといいます。しかし、死は覚悟のうえでした。
「生きては帰れないと思っていますからね。訓練を受けている時に、もし『一人旅に行け』と言われた時には、『何か遺品を置いて行け』『言葉を書いて行け』と言われてました。その時は二十二、三歳の若さでしたから、私は、お国のためとかは、あんまり思わんかったけど、自分の職責はちゃんと遂行していかなければならないと思っていたし、自分でもできるという意識がありました。」
その後、平野さんは、関東軍司令部にもどり、そこで終戦を迎えました。
そして、ソ連軍に連行された平野さんは、密林地帯での伐採作業に従事。空腹と寒さの中での厳しい労働で多くの仲間を失いました。
「『こんな事してるぐらいやったら、なんとか逃げなあかん』と、日本に帰りたい一心で、一歩でも日本に近づきたい、という気持ちで、『シベリアで死んでたまるか』と思っていました。」
脱出に成功した平野さんは、苦労を重ねましたが、日本への帰国を果たすことができました。