-滋賀県唯一の郷土中隊、第四次満州開拓青年義勇隊の隊員として-
中西三郎さん(昭和2年生まれ 近江八幡市)
中西さんは昭和16年6月、14歳で第四次満州開拓青年義勇隊(滋賀中隊)の隊員として満州(現在の中国東北部)に渡りました。この中隊は、滋賀県出身者のみで結成された最初で最後の郷土中隊でした。
中西さんは、3人兄弟の末っ子。2番目の兄の二郎さんも同じ中隊の隊員でした。
満州に渡った約300人の少年たちを待っていたのは、ソ連(現在のロシア)国境に近い訓練所での厳しい生活でした。
「現地の黒河(コッカ)省にあった嫩江(ノンコウ)訓練所で、農業と軍事教練の基礎訓練を3ヵ年受けました。どちらかというと軍事教練が主でした。当時、訓練所には電気はなく、ランプ生活でした。冬は厳しかったなあ。零下40度近くまで気温が下がる日もあるし。」
3年後、中西さんたちは、日本海側の琿春(コンシュン)に入植し、開拓の村づくりに励みました。
しかし、その頃は戦争末期、開拓団員の多くは現地召集され、残ったのは、未適齢期の中西さんら50名余りでした。
昭和20年8月9日ソ連が参戦し、ソ連軍から逃れるため中西さんたちは村を後にします。まもなく、中西さんたち団員は在郷軍人部隊に編入され、ソ連軍の戦車を迎撃するという任務が与えられます。
「戦車壕を掘って、ソ連の戦車を待ち受けました。13日に初めてソ連の戦車が砂埃をあげて、僕らが構えている陣地に向かってきたんです。その時が初めての戦争体験で、怖かったねぇ。」 8月17日の夜になって、初めて終戦を知らされた中西さんたちは、山中に入って、昼寝て夜歩くという逃避行の末、一般避難民と合流することができました。
その後、他の開拓団の人々とともに、琿春に戻ったものの、元いた開拓団には帰れず、難民収容所で難民生活を送ることになりましたが、そこでは飢えと寒さと病気で多くの開拓団員が亡くなりました。
翌春、ソ連軍の使役に出ていた仲間が、国境付近の畠で中西さんの写真を拾ってきました。その写真は、お兄さんの二郎さんが現地応召の際に持っていったもので、裏にはお兄さんの筆跡で「弟三郎、もう逢う時はないと思う。元気で。二郎」と書かれていました。それを見て、中西さんは、お兄さんが捕虜となってソ連に連行されていったと推測しました。
その後、中西さんは、昭和21年11月に無事日本に帰ることができました。また、お兄さんも12月にシベリアから復員し、再会することができました。
お兄さんによると、ソ連軍に捕虜として連行される途中、もしかしたら三郎さんを知っている人が拾ってくれるかもしれないと思って、三郎さんの写真を挟んだ軍隊手帳を残していったということでした。
また、お兄さんも、ソ連の収容所で、同じ開拓団員の仲間から三郎さんが琿春の難民収容所にいることを知らされており、敗戦直後の混乱の中、偶然にも離ればなれの兄弟がお互いの消息を知ることができました。