-義勇隊から学徒出陣 北大東島へ-
北村進さん(大正12年生まれ 米原市)
北村さんは昭和13年、お母さんの猛反対を押し切り、第一次満州開拓青少年義勇隊の一員として14歳で憧れの満州(現在の中国東北部)に渡りました。
「見渡す限り、ほんとに海の上にいるような状態で、地平線しか見えない荒野です。ほんとに胸が躍りました。うれしかったです。このような土地で、農業ができるんか、狭い土地にいなくてよかったと、躍動感が湧きましたね。」
しかし、オオカミの遠吠えが間近に聞こえる荒野。まだ14歳の少年には不安も大きかったようです。
「望郷の念はありましたよ。お月さんを眺め、星を眺めて涙を流しました。そら、子どもでっさかいにね。」
昭和14年の4月頃、北村さんたちはまだ基礎訓練の途中で、鉄道を警備する任務を与えられ、「大和鉄道自警村(ヤマトテツドウジケイソン)」に移住しなければなりませんでした。その背景には、関東軍とソ連軍が満州・蒙古(現在のモンゴル)国境で衝突したノモンハン事件がありました。
ノモンハン事件終結後、開拓に従事していた北村さんは、昭和14年11月頃帰郷、義勇隊の指導者として第三次義勇隊を引率して、翌年の6月再び満州に渡りました。まだ17歳の北村さんでしたが、お母さん代わりに年下の少年たちの不安な心をなぐさめていました。少年たちとともに、開拓を続けたいと思う北村さんでしたが、上からの命令で開拓の指導者となるために訓練所に入らなければなりませんでした。
嚮導(キョウドウ)訓練所で2年間の基礎訓練を受けた後、昭和18年4月、動物が好きだったので北村さんは、指導員訓練所の畜産科に進んだといいます。写真は、嚮導訓練所時代、友人(左)との記念写真。
そして、昭和18年10月、北村さんは学徒出陣で対戦車砲が任務の速射砲中隊に入隊。昭和19年6月沖縄方面へ動員命令が下り、7月末には北大東島へ上陸しました。
「本隊は南大東島におりましたけどね。北の方が無防備になるんで、速射砲を北大東島に据えようということで。敵が攻めて来た時、大砲で上陸をさせないように、珊瑚礁の島に塹壕を掘って、ほして、爆弾を落とされても耐えられるような、1つの要塞を築くわけですよね。上陸する軍隊が来たら、炸裂弾を持って、上陸ささんように大砲を撃つと。こうゆうような任務ですね。」
南大東島は米軍の猛攻撃を受けましたが、北村さんたちはなすすべもなく、ただ見守るしかなかったといいます。そして、終戦を迎え、無事に帰郷することができた北村さんは南大東島をはじめ多くの戦死者に思いを馳せます。
「北大東島でよかった。ほんとに、『軍隊は運隊』やな思います。幸せなことです。九死に一生を得た私ですので、戦死者に慰霊の誠を捧げるのが、私の余生です。」