-義勇隊から現地召集、そして終戦、シベリア抑留-
小竹友吉さん(大正14年生まれ 蒲生郡日野町)
昭和14年1月、14歳になったばかりの小竹友吉さんは、満州開拓青少年義勇隊に入隊しました。当時の小学校の先生の勧めで心が動いたそうです。 「『大陸はええなぁ』と思た。宣伝がよかったんやなぁ。そやから、わしも『よし!一旗あげたろかなぁ』と思て行ったんや。」
家族や地域の人々など多くの人に見送られて義勇隊の訓練所(茨城県の内原訓練所)に入所した小竹さん。しかし、期待に胸ふくらませる小竹さんたち義勇隊の少年たちを待っていたのは厳しい訓練の毎日でした。「(訓練所での)3ヵ月の間、泣いたわ。そらぁ、今で言うたら、中学2年生や、子どもや。そんな子どもにねぇ、朝から晩まで軍事教練や。きびしいなぁ。歩哨はせんならんし、鉄砲撃つ練習はせんならんし。身体より銃の方が背は大きいんやし。わしらみたいに14のもんが60人いたかなぁ。」
義勇隊は、開拓民として農業を学ぶだけではなく、国境や鉄道などの警備にあたる兵士としての役割も求められていました。
3ヵ月後、満州(現在の中国東北部)に到着した小竹さんは、現地の訓練所で3年間の訓練を受けました。昭和17年春、晴れて開拓団の一員となった小竹さん。
「トラクターで土を起こして、20町歩とか、30町歩とか、畑、ようさんこしらえたわ。そこの畑、それぞれ皆割り当てて、豆やらを作ってた。」。
14歳で渡った満州で20歳を迎えた小竹さんは、昭和20年5月末、現役兵として現地の部隊に入隊しました。速射砲大隊という戦車攻撃部隊に配属された小竹さんは、8月、ソ連軍との激しい戦闘を体験しました。死を覚悟した小竹さんでしたが、「(小竹さんの中隊は)一発も撃ってないねん。だから、助かった。死なんですんだんや。ほんでも、死ぬことは怖くなかった。その頃はそういう教育やったから。そらぁ、戦死することが名誉やったから。」
まもなく終戦を迎えましたが、「シベリアに連れて行かれたんや。バイカル湖が見えた時にみんな海やと思いよって『こらぁ、海やで、日本に帰れる』いうて、喜びよったけど、『そやけど、おかしいで』いうてたら、(汽車が停車中に汲んできた水が)『真水やで!』『バイカル湖や』いうて、それからシベリアまで、ほんまに遠くまで連れて行かれたわ。」
小竹さんたち満州の軍隊の多くはシベリアでの抑留生活を余儀なくされました。小竹さんが、懐かしい日野に帰ることができたのは、終戦から4年後の昭和24年8月でした。