-覚悟していた出征-
井上外次さん(大正2年生まれ 東近江市[八日市市])
井上外次さんは、妻のヤエさん、長男桂一さん、長女喜久子さん、次男次雄さん、そして父の喜蔵さんの6人家族でした。農業に励む外次さんに召集令状が届いたのは、昭和18年12月、冬を迎える準備に、近くの山へ柴刈りに出かけていた時でした。父の喜蔵さんが、幼い喜久子さんを背負って山まで行き、そこで外次さんに「外よ、おまえは戦争に行かんでよいというてたけど、赤紙がきたで」と召集令状を手渡したそうです。
家を出る前、外次さんは、召集令状を受け取る前に書いていた遺言状を仏壇の引き出しから取り出し、ヤエさんに「もし、わしが無事に帰ってきたらあける必要はないから、何かあるまではしまっておいてくれ」と言われたそうです。
それから1年半後の昭和20年7月16日、外次さんはフィリピンのルソン島の山中で戦病死しました。
喜蔵さんは息子の出征のショックからまもなく寝込んでしまい、昭和19年、病気で亡くなりました。