-沖縄で玉砕した夫-
奥谷忠一さん(大正4年生まれ)
奥谷はつさん(大正4年生まれ)高島市[安雲川町]
奥谷はつさんの夫、忠一さんは昭和19年6月沖縄に出征し、翌年の昭和20年6月に戦死しました。忠一さんのことをはつさんは次のように語ってくれました。
「私はこの家で生まれました。主人は養子で高島町から来やはった。大工見習いに京都へ行ってはったんどすけど、私と結婚してうちの農業をやらはったんどす。正直でまじめな人でしたわ。京都にいてたもんやから、何もかもおしゃれな人どしたわなぁ。 召集令状がきたのは、長女が3歳で、長男が生まれてすぐのときでした。そらぁ、もう覚悟してました。もう、ほとんどの人が(戦争に)行かはりましたから。 昭和19年やから、のぼりも何もあらしません。ほんでもなぁ、安曇川駅まで、皆で送って行きました。 どこへ行くのかは秘密ですわな。主人が入隊したのは琉球の“球”がついた『球部隊』でした。けんども、その時には私らにはどういう意味かわからしません。 沖縄から手紙がきて、わかったんやけんど。けんども、沖縄が危ないという思いはなかったわね。南方と違うて、『沖縄やったら、まだよいなあ』といってまし た。
戦死しやはったことは、戦死公報がくる前から感じてました。新聞に『玉砕』と書いてあったから。公報がきたときには覚悟はできてました。」