-日赤救護看護婦として-
清水清子さん(昭和2年生まれ 東近江市[八日市市])
清水清子さんは、昭和19年に召集を受け、日赤の救護看護婦として中国大陸へ赴きました。そして、終戦後も内戦中の中国に留まらなければなりませんでした。清水さんが帰国できたのは、昭和24年9月のことでした。舞鶴港に引き揚げた清水さんの写真が『一億人の昭和史・別冊13 号・日本植民地史2‐満州』(昭和53年・毎日新聞社刊)に掲載されています。当時の様子を清水さんは次のように語ってくれました。
「(引揚船)高砂丸から下船し収容所に移ろうとしている私が写っています。私は、断髪姿です。髪を洗う機会がたいへん少ないので短くしたのです。当時の 中国共産党軍の服を身に着けています。私が手にさげているのは、日本から持ってきた衣のう・雑のう、そして、水筒です。これは中国・八路軍の指揮下で行軍中にダー車(大八車)のワダチにはさんでしまい、少しくぼんでしまいました。