-日赤救護看護婦として-
岡部乃ぶさん(大正5年生まれ 米原市[山東町])
岡部乃ぶさんは、昭和11年日本赤十字社滋賀支部甲種救護看護婦に任用され、昭和12年に勃発した日中戦争に向けての救護班に編入されました。戦場近くの兵站病院では夜も昼もなく運ばれてくる負傷兵に、救護活動は過酷なものになりました。病院は負傷兵であふれ、脈のない兵は次々と運び出されていきました。「配ったおにぎりを受け取った兵隊さんだけ、病院においてもらえるのです。」岡部さんの回想です。
看護婦には風呂は1週間に1度だったり、2週間に1度だったりしました。食事も3食とも真っ黒のバリバリのおにぎりと水だけとか、堅いパンとジャボン(ザボン)だけだったりしました。仕事は夜もありました。
「治療包帯ではなく、反物が何百反も届くんです。それを30cmの幅に切り裂いて、包帯を作るんです。それが夜の仕事です」
岡部さんはその後、大津陸軍病院勤務を経て、召集解除になりました。しかし、その後昭和15年から2年間、昭和19年から終戦までと、3度にわたり救護班に編入され、陸軍病院や海軍病院で勤務することになります。岡部さんは青春時代のほとんどを救護活動で過ごしたのでした。