-学校の先生から激戦地へ-
堀田肇さん(大正10年生まれ 米原市[山東町])
堀田肇さんは、開戦の年の昭和16年4月に小学校の先生として初めて教壇に立ちました。それから10ヶ月程経った昭和17年2月、歩兵第119連隊に入営することになります。その後陸軍教導学校で幹部候補生の教育を受けて、見習士官になりました。そして堀田さんたちの部隊は中国で5ヶ月ほど過ごして、昭和18年10月にサイゴンに上陸し、19年3月から始まったウ号作戦(インパール作戦)に参加します。
そして、戦場で約1ヶ月が過ぎた昭和19年4月17日、インドアッサム州インパール県において、戦闘中に砲弾破片を体に受け、左大腿部や右耳部などを負傷します。しかし、激しい戦闘中であったこともあり、簡単な応急処置だけで、5,6時間も戦場に放置されました。それはほとんど死と隣り合わせの状態でした。最初に手術をしてもらった時、担当の軍医は堀田さんにこう言ったそうです。「堀田少尉、おまえな、もうインク瓶 1杯分出血してたら、それで終わりやったな。」
堀田さんはその後、戦場から段々離れて、より整った治療を受けられるようになり、最後にフィリピンのマニラにあった陸軍病院で初めて正式な手術を受けたのでした。その時には、負傷してから4ヶ月の月日が経っていました。
堀田さんはインドの北の方で負傷しました。あの当時、3月15日に作戦開始、4月15日にはインパールを落とそうということだったそうです。この双眼鏡はそのような戦闘で使われていたもの。倍率は6倍。砲弾の破片を体に受けて負傷したとき、首に掛けていた双眼鏡にも当たり、接眼レンズ部分が飛んでしまいました。飛び散ったところは帰国後、修理されていますが、一部弾の跡が残っています。
この寄せ書きは、堀田さんのために滋賀師範(現滋賀大)の先生をしていたおじさんが作ってくれたものです。武運長久と書いた人は、師範学校の校長先生で、 担任の金川先生、教育訓導の若山先生(今で言う先生)、事務の山本耕作さん(いわゆる事務長です)、2つ先輩の杉中先生などが署名しています。