-虎姫中学から甲種飛行予科練習生へ志願-
髙橋亮一さん(大正11年生まれ 長浜市[虎姫町])
髙橋亮一さんは、太平洋戦争開戦の昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃に艦上爆撃機に乗って出撃しました。しかし、その攻撃の最中に被弾し、敵の駆逐艦に突っ込み戦死しました。
お父さんの顔を知らずに育った髙橋さんは、虎姫中学に進みますが、4年生を終了した時点で進級せず、海軍航空隊に志願し、入隊します。昭和13年の4月のことです。それまでの屈託のない学生生活とはうってかわって、厳しい飛行兵としての訓練が続く軍隊生活を送る中、一人前の飛行兵として育っていくのでした。昭和15年、飛行練習生偵察員として航空母艦「蒼龍」に乗り込んだ髙橋さんは、実戦を想定して、より厳しくなった訓練を日々繰り返していました。母親思いの亮一さんは、母政栄さんに宛てて、数多くの手紙を送っています。
亮一さんは、ひとり残した母親政栄さんに数多くの手紙を送っていますが、どの手紙にも母を思う心遣いが書かれています。この手紙には、「10月から戦地か、11月から艦隊かどちらかです。これを楽しみにして頑張ります。」とあり、艦隊勤務が近づいていることが分かります。
虎姫中学から同級生で海軍航空隊も途中まで一緒だった友人の小西さんは、真面目な性格だった髙橋さんのことを次のように語ってくれました。 「(海軍航空隊の試験を)わしは腕試しだゆうて、まあまあ受けてみるゆうことだったけど、髙橋はお国のためだからゆうてね。わしに、『今時な、そんなこと言うもんじゃない。』ゆうてな。あれは決断してきた。それは確かだ。」