-学校の先生から激戦地へ-
黒川増吉さん(大正9年生まれ 甲賀市[土山町])
黒川増吉さんは、昭和16年1月に関東軍に入隊しました。はじめは満州で軍隊生活を送っていましたが、12月の太平洋戦争の開戦によって、部隊はニューブリテン島へ向かいます。
機関砲砲手としてガダルカナルの撤退作戦やブーゲンビル島の飛行場警備等に参加し、死と隣り合わせの緊張の日々が続きます。昭和18年、部隊がニューギニア作戦に参加するために移動中、ダンビール海峡で乗船していた輸送船が撃沈されます。
そして、またニューブリテン島に帰って来ます。島の西端にあるツルブで上陸、警備する中、昭和19年、アメリカ軍の上陸部隊と激しい戦闘が始まり、このニューブリテン島西部の戦場は凄惨な光景に転じます。この戦闘で黒川さんの部隊はほとんど壊滅状態になりました。黒川さんも、遂に、1月に砲弾の破片を大腿部から下腹部にかけて受け、重傷を負います。しかし、簡単な手当てしかされないままで、敗残兵となって本部のあるラバウルをめざします。
およそ500キロの道程を、傷をかばいながら、また敵から身を隠すようにして、ラバウルに到着するのに、4ヶ月の月日が必要でした。
お母さんが武運長久を信じて縫い込んだ5銭と10銭が残っています。9銭(苦戦)を越えて10銭、4銭(死線)を越えて5銭の意味です。千人針は、弾が当たって破れたままで、負傷時は血で真っ赤に染まったそうです。
戦地で常に身体に巻かれていて、満州とは違い、南方の第一戦では洗濯もされず、シラミが湧いていたといいます。
兵器についている鉄鋸等の道具を使って 、ラバウルで戦闘の合間に、ジャングルで捜した小さな椰子の実をくり抜いて拵えられたタバコ入れ。
左)軍刀を包む革で作ったサック
右)マラリアに罹患したときの事実証明書
ラバウルの収容所で作成されたものです。本隊は壊滅状態になってしまいましたが、ラバウルに残っていた留守部隊の兵事係が書きました。