-戦闘の合間に短歌を詠むこともあったが、終戦前後は辛い日々が続いた-
堀池榮一さん(大正8年生まれ 草津市)
堀池榮一さんは、昭和15年、現役兵として輜重兵第16連隊第3中隊 (自動車隊)に入隊しました。昭和16年の開戦に伴って、フィリピンルソン島に派遣されます。警備等の任務に当たっていましたが、比較的任地も平穏であり、短歌を当時現地で発行されていた陣中新聞に投稿するようなこともありました。
フィリピン・マニラで昭和17年6月9日に発行された陣中新聞「南十字星」
堀池さんの投稿歌の1首には、「砲声と虫鳴く声に夜は更けて今日もことなく車上に夢む」とあります。
(堀池さん所有)
約8ヶ月後に病気になり、除隊となりますが、除隊して1年半ほど過ぎた昭和19年6月、堀池さんは臨時召集により重砲兵第5連隊に応召し、独立自動車中隊に編入され、再びフィリピンへ向かいます。マニラ、次いでミンダナオ島カガヤンに8月に上陸した堀池さんたちは、同年11月にダバオ州トクボクで警備、輸送業務に従事します。任務は主に自動車での食糧、武器、弾薬の輸送ですが、最後の方はガソリンもなくなり人力輸送に変わっていきます。その内戦況は段々悪化していき、アメリカ軍の空襲が激しくなっていきます。そして、昭和 20年4月にはアメリカ軍の上陸が始まり、堀池さんたちの部隊は、これを迎え撃つ作戦を進めます。しかし、アメリカ軍の猛攻に、7月には山中で中隊が解散になり、以後2ヶ月間は、ミンダナオ島の山中を敗走することになります。その間には食糧も乏しくなり、また、たくさんの病気や負傷した兵士が山中で命を絶ったそうです。
陣中新聞南十字星に記載された詩歌等をまとめた「南十字星文芸集」
陣中新聞南十字星編集部編集、マニラ日日新聞社印刷部印刷、昭和17年6月15日・比島派遣軍宣伝班発行
(堀池さん所有)
堀池さんは昭和20年11月に復員するまでの1年余りの間、アメリカ軍の収容所で生活しますが、そうした日々のことをメモに書き留めていました。その手記が、戦争末期の悲惨な状況を今に伝えています。