-日赤救護看護婦の体験-
奥村モト子さん(大正14年生まれ 大津市)
奥村さんは、当時、日本の支配下にあった朝鮮半島で家族とともに暮らしていました。
17歳のとき奥村さんは、父親の反対を押し切って、現在のソウルにあった日本赤十字病院救護養成所に入りました。「私たちは女の特攻隊だと思っていました。自分の命を投げ出すことが日本の国を守っていくことだと教育されていましたから。国のために、傷ついた人たちを看取ってあげたい、ただそれだけでした。」それは、当時の多くの若者が抱いた気持ちでした。
フィリピンへ向かう奥村さん (旧姓佐藤元子さん)が、遺書のつもりで仲間と書いたという寄せ書き。「博愛」が奥村さんの書。
昭和19年4月末、兵士と同じように召集令状が届き、奥村さんはフィリピンへと向かいました。しばらくすると、アメリカ軍の猛攻が始まり、マニラの病院から奥村さんたちは避難を余儀なくされました。昭和20年6月から約3ヵ月間、フィリピンの山中で食糧も乏しいなか、逃避行は続きました。「お米は持っていましたが10人が1日食べるのに1合もなかったかな。草の葉っぱの上にちょっちょっとのっているような感じでした。」
終戦の1カ月後、アメリカ軍の捕虜となった奥村さんですが、翌年の8月には日本へ帰還、一足先に引き揚げた家族と再会しました。しかし、その年の終わりには、博多引揚援護局に勤務し再び救護看護婦として、中国からの引き揚げ船に乗り込んで、病人やけが人の看護にあたりました。 戦争中、終戦直後と多くの死に直面し、「命が大事やというけれど、戦争は命をいちばん無駄にしているんですよ。」という奥村さん。今、この重い体験を、中学生など若い人たちへ語り伝えています。