-海軍航空隊の整備兵-
林 太郎さん(大正10年生まれ 守山市)
父親が営むうどん屋を手伝う林太郎さんは、昭和16年徴兵検査に甲種合格。翌年、海軍に入団し、昭和19年2月頃、北マリアナ諸島のテニアン島に向け出発しました。
しかし、7月末、テニアン島へ米軍が上陸、日本軍守備隊への猛攻が続きました。8月2日、ここが死に場所とされた穴(蛸壺)に身を潜める林さんら残存兵へ、米軍の戦車への突撃命令が出ました。 「あ〜、そんな。戦車は回り撃ちしとるやん。もう飛び込んでいきよるやつおらへんさけ。」「私の前にいた二人ほどがやられよって、私にかぶさってきて。前の方はずーっと死骸の山。もう立ち上がる気しなんだ。」日本軍守備隊は玉砕。奇跡的に助かった林さんは、米軍の捕虜となるまでの約7ヵ月間、ジャングルや洞窟の中を転々とし生きのびました。
捕虜となった林さんは、カリフォルニアの収容所で、厳しいノルマのもと、トウモロコシの収穫や綿摘みをさせられました。終戦もカリフォルニアで知りました。約1年後、再びハワイで捕虜生活を送り、昭和22年1月20日守山駅に到着。そこで、「死ぬなよ」と林さんを送り出した母親がひと月ほど前に亡くなったことを知らされました。
「戦争は絶対したらあかん。」玉砕という軍隊の極限を体験した林さんの言葉です。