-生きては帰れない島、硫黄島-
松崎香苗さん(大正5年生まれ 彦根市)
当時日本の統治下にあった朝鮮で生まれた松崎香苗さんは、朝鮮総督府(朝鮮統治の最高行政機関)に勤務する寿吉さんと昭和13年に結婚しました。 翌年には、子どもも生まれましたが、3人家族の生活はそう長くは続きませんでした。
「昭和19年4月23日に赤紙がきてね。もうちょっとで戦争が終わるというのにね。その当時、皆で『島に行ったら、生きて帰ってこれんなぁ』と言うてたのに、行った先が硫黄島だったの。」と語る香苗さん。
その半年後の10月14日、寿吉さんは戦病死しました。お葬式のときに寿吉さんの派遣先が硫黄島であったことを香苗さんは初めて知りました。
香苗さんの元に届けられた遺品の中に、寿吉さんが亡くなる十日前まで書かれた日記がありました。香苗さんは、その日記から硫黄島での過酷な毎日を知りました。
「横須賀から硫黄島に渡るのに3べんほど魚雷にやられて、みんな泳いでいるうちに、仲間の船に助けられて硫黄島に渡ってるんだけど、島に着いたら硫黄ばっかしで、真水がないんで、雨水を受けて濾過して飲まなきゃいけないの。それまで健康で、いっぺんも病気したことがないのに、お腹こわして死んでしまったの。日記には、今日は何を食べたとか、毎日艦砲射撃があって、今日は誰々が死んだとか書いてあるの。」
寿吉さんが亡くなった約4ヵ月後の昭和20年2月19日、米軍が硫黄島に上陸し、日本軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました。約1ヵ月続いた戦闘で、日本軍の硫黄島守備隊約2万人1千人のうち約2万人が戦死、米軍も約2万9千人の死傷者を出したという、過酷な戦いでした。