-昭和29年、やっと踏んだ祖国の土-
河内研吾さん(大正9年生まれ 大津市)
河内晴子さん(昭和2年生まれ 大津市)
河内研吾さんは、大学卒業後、関西電力に入社まもない、昭和17年現役兵として満州(いまの中国東北部)の航空隊に配属されました。一方、晴子さんは、医師の父親が満州に病院を開設したため、6歳の時、家族で満州にわたりました。
終戦後、中国の八路軍(現在の人民解放軍の前身)の支配下で、研吾さんは炭坑で働かされ、晴子さんは収容所生活を送りました。
「食事の材料は八路軍がくれるんですが、コーリャンとかトウモロコシとかで、お腹いっぱいになんかなりません。半年間でほとんどの子どもが栄養失調で死にました。もう毎日子どもが死んでいって…。ここにいてたら死なすので、中国の人に預けられた子どももいました。」と晴子さんが語ってくれたのは、終戦後の満州で日本人が体験した過酷な生活の一端です。
そして研吾さんは、暴動を起こしたという嫌疑をかけられ、捕らわれの身となり、釈放されるまでの5ヵ月間、拷問と乏しい食糧という過酷な獄中暮らしを余儀なくされました。その後、研吾さんは、炭坑の事務所で働き始め、 同僚だった晴子さんと昭和22年に結婚しました。2人の子どもにも恵まれた研吾さんと晴子さんでしたが、なかなか帰国の許可はおりませんでした。
それから7年後、突然「お前、帰っていい」と言われ、晴子さんのお父さんたち家族も一緒に帰国の途につきました。
「日本の土を踏んだとき、わぁ祖国だと思いました。そして、旗を持って迎えてくださる人たちをみて、とても感動しました。」
と当時の思いを語ってくれた晴子さん。それは、終戦から9年後のことでした。