-「おとぎの国」の若き衛生兵-
山中文夫さん(大正12年生まれ 甲賀市)
昭和16年3月、滋賀県立水口中学校を卒業した山中文夫さんは、海軍に志願しました。舞鶴海兵団に入団し、看護兵(のちの衛生兵)としての訓練を受けた山中さんは、舞鶴海軍病院に勤務し、しばらくすると手術所という部署に配属されました。
「手術所では、手術のことばっかりや。手術があったらお医者さんのいろいろな手伝いをするんや。そやから、外科のこともみな習うたんや。それは、戦地へ行っても、ものすごう間にあったんや。」
昭和19年4月、山中さんは第119防空隊の一員として、赤道直下のセレベス島(現在のインドネシ ア・スラウェシ島)の北東端に位置する港湾都市メナドに派遣されました。
山中さんが部隊から離れ、勤務したメナド海軍病院では、外科医が不足していました。
「いっぺん空襲に出会ったら、負傷者が30人も40人も入ってきよんねや。外科医が少なかったから、舞鶴海軍病院の手術所にいたわしは間にあって、貴重がられたんや。」
医薬品が不足する中での手術や治療が続きました。機銃掃射の中を逃げ回ったり、投下された爆弾が不発弾で命拾いをしたりという状況下で、負傷者の看護に携わる毎日でした。
その頃山中さんは、21歳の若者でした。山中さんが家族に宛てた便りには、軍の機密保持のため、行き先を書くことができず、「おとぎの国へ来たよう」と、南の島に派遣されたことをほのめかすような文面を送っています。
終戦直前、山中さんは、手榴弾を2つ渡されました。
「ほんで、穴掘らして、その穴に入って、敵の戦車が来たら一つは投げつけよ。ほで、もう一つは頭の上にのせて、戦車が頭上を通りよったら、戦車もお前も爆発やゆうて。そういう最後の指令が下りたあるねん」
終戦後、連合国軍の捕虜となったが山中さんが、懐かしいふるさとに帰ることができたのは、昭和21 年6月のことでした。