2026年8月7日
体験者の語り
大津市北比良(おおつしきたひら)
県民・男性・大正15(1926)年生まれ
この調査は、琵琶湖博物館と協働でおこないました。
大津市北比良における昭和の記憶:比良川水害と地域社会の変遷
1. 【自身の生い立ちと戦争の記憶】
昭和12(1937)年、日中戦争が勃発し、戦火が中国全土に広がり、その後太平洋戦争へと進展し、昭和16(1941)年12月8日には真珠湾攻撃がありました。私は19歳から20歳にかけて海軍に入隊していました。
滋賀県内では、八日市や大津の阿那賀(現在の自衛隊駐屯地付近)に海軍の飛行場がありました。舞鶴にいた後、先発されて横須賀へ行きました。そこは特攻隊の養成所で、人間が戦いの玉となって特攻のために潜水艦に乗っていくような場所でした。九州の鹿児島には特攻隊の基地がありました。
2. 【自身が経験した水害と昭和11年比良川水害】
・昭和9年~11年前後の周辺環境
私の家の前には船着き場がありました。琵琶湖が小浜や敦賀から今津を通り、大津、草津、八幡等への交通路であり、今でも残っている倉庫が多く、北陸から運ばれてくる魚、米、塩などが保管されていました。船頭の船を所有している家が10軒以上あり、私が6~7歳頃までは湖岸にそうした家があったのを覚えています。
自宅の西側には「西道防(サイドボウ)」という谷があります。西道坊には、広い上西道坊と狭い下西道坊があります。この辺りはお寺にちなんだ名前が多いので、西道防もそこから来ています。
今のようにテレビやインターネットでの報道はありませんでした。ラジオはありましたが、ラジオは、火の用心と言いながら集落内を歩いた時に集落の古い会館で初めて見たくらいです。電波がよくなくてあまり聞こえませんでした。また、履物も当時は藁草履でした。今のようなゴム長靴はありませんでした。
台風に備えて特別なことはしていませんでした。当時は茅葺きの屋根がほとんどで、裕福な家庭はヨシを使った屋根でした。2~3日前から変な風が来る気配は、船頭等詳しい方の指示に従っていました。屋根にロープをかけて、屋根が飛ばないようにしているのを見ました。私の家は船頭ではなく石屋だったので、屋根にかける道具やロープがなく、屋根にロープはかけていません。そういうことをしていたのは船頭の家だけで、彼らの仕事の一つだったのだと思います。ごつい杭でつっぱりをしていた家もありました。足場に使う材料で、角材よりも丸いものです。子どもが手伝う仕事ではなく、大人の仕事でした。ロープや杭がある家だけがしていました。
「大雨」や「大風」という言葉はありました。船頭さんは朝起きて雲や風の流れを見て、琵琶湖の南の方を見て、自身の仕事の判断、つまりは感覚で仕事をされていたように思います。湿っぽい雲や「比良おろし」(シベリアから日本海、若狭を経て山にぶつかってくる風)のような風があると天候が荒れるサインなので、そうした前兆があっただろうと思います。
・昭和11(1936)年の比良川水害
私にとって最も記憶に深く刻まれているのが小学校4年生の時「昭和11年7月6~7日」に発生した「比良川の決壊」です。
比良川の堤防が60mから70mくらい決壊したと思います。はじめちょっと切れてその後急に決壊区間が広がっていきました。
また、当時江若鉄道の盛土の高さが4mぐらいありました。洪水が発生したときに、この盛土によって水が堰き止められた状況でした。江若鉄道の盛土には、人が盛土を横断できるように、2~3m幅ぐらいの道路が掘られていました。この頃は、夏でスイカが採れる時期でしたので、この穴から、スイカ畑から流れてきたスイカがぷかぷか浮いているのを見ていました。
自宅は水害の被害に遭いませんでした。西道防の谷沿いに水が流れたため、集落も無事でした。家も流されていませんが、小石混じりの砂が比良川から流れてきました。赤土の小砂(コス・・・微粒砂、細かい砂や微細砂に粘土分や腐植土が混じった軟弱な土)が流れてきていて、それを片付けるため「もっこ*」で担げるのを子どもの頃見ました。決壊箇所には、大きな石が混じっていました。当時は建設関係の先に小石が売れたので、水害が落ち着いてから、米を入れる「ひげこ」(入れ物)に石を入れて浜まで運び、船頭に売りました。船頭は帆船に積んで売りに行きました。
山が流れた分だけ、高さ約6~7m(20尺)、堤防決壊の口は100mほどで、そこから石や砂が溜まりました。川は空になり、水は田んぼの方向へ流れたため、片付けは村の人たちで行いました。畑に溜まった水は、毎日もっこに入れて山へ持って行っていました。10割のうち2割ほどの土地を犠牲にして(溜まった土や砂を捨てる)、残りの8割の土地を田んぼとして復旧させていました。今ならユンボで運ぶのでしょうが、当時は何もなかったので、もっこで運んで田んぼの真ん中に高い盛り土を作りました。砂を捨てる場所がなかったからです。当時の百姓には耕運機がなく、すべて牛を使っていました。
*もっこ:土砂、砕石、資材などを運搬するための、風呂敷状の伝統的な道具。
3. 【比良川周辺の地形と復旧作業】
今の集落があるところは、600年前には比良川が流れていました。あまりにも比良川が荒れるので、慶長年間(約400年前)に北の近江舞子の方へ付け替えて今の位置になったようです。
比良山の土質は砂が多く、石も玉石ばかりです。そのため、山に雨が降ると、保つ力がなく崩れやすいです。
雨が降ると、比良川に、水、砂、石が勢いよく流れてきました。昭和11年、7月水害の時は、勢いよく流れてきた水、砂、石によって、堤防の基礎が失われ、堤防が決壊したものだと思われます。
堤防が決壊し、集落に向かって流れてきた土砂や石は、大人の背丈ほども積み上がり、田畑は一瞬にして埋まってしまいました。
水害の後、流れてきた石や砂を片付けるのは大変な作業でした。当時は重機もありませんから、すべて牛や人の手で、もっこを使って土砂を運び出しました。農家の方々は、農業の合間を縫って何年もかけて田畑を復旧させました。また、流れてきた石の中には良質なものもあり、それを拾って建設業者に売ることで、わずかな収入にしていた人もいました。坂本の鳥居(日吉大社)、滋賀県庁の本館に使われている石も、この辺りから切り出されたものだと言われています。
4. 【消防組の活動と昔の防災の知恵】
昔は各集落に「消防組」(現在の消防団)が組織されており、災害時には最も頼りになる存在でした。小学校を卒業した後、まず「義勇消防組」に入ります。10代の青年で構成されています。その後、数え20、21歳になると兵隊検査があり、戦争へ行きます。戦争から帰ってきた20代、30代が「本消防組」を結成します。組員と、リーダーの組長(隊長)と小頭がいました。義勇消防組、本消防組を合わせると大体30~40人が活動に参加していました。消防組は法被を羽織り、各家から一人ずつ出て、縄やのこぎりを持って現場へ向かいました。消防車もありません。手押しポンプがあったくらいです。
台風が来ると、屋根が飛ばされないようにロープをかけたり、川の増水時には堤防に沿って等間隔に植えられた松の木を活用し、一時的に水量を抑えていました。昔の堤防尻は人が歩けるようにもっと高くなっていました。こうした松の木は今はない場所も多いですが、自然に生えている箇所も残っています。
消防組は水害の時、最も重要な役割を担いました。比良川が決壊したり、台風で大きな被害が起こると、サイレンなどはなかったため、あちこちで半鐘やお寺の太鼓、釣り鐘が鳴らされ、緊急性を知らせるために早打ちをしていました。家の中にいる者を家の外へ出るよう促していました。消防の仕事は昼夜を問いませんでした。事が起これば、まず第一に消防組が現場に駆けつけました。水害に限らず、山や琵琶湖での遭難者の捜索も消防組が行いました。昔はそれくらいが精一杯でしたが、それは集落の力の結集であり、集落の力がなければただ傍観しているだけでした。
松の木を切って消防組が活動しているのを最後に見たのは、各市町村や大津市ができる以前、旧の村集落があった頃までです。40年ほど前までは活躍していたと思います。冬場に雪に閉ざされた山で遭難事故があった際も、消防組が出動し、自分たちの足と知恵だけを頼りに助けに向かいました。
5. 山との共生と次世代への願い
・昔の山との関わり
山の道もよくありませんでしたが、山は賑やかでした。私は子どもの頃から山に行っていました。昭和3年頃にはこの辺りを江若鉄道(1969年、昭和44年運営終了)が走り、リフトができました(1960年、昭和35年営業開始)。比良バスを山へ上げて、山道の補修が始まりました。それまでは機械がなかったので歩いて行っていました。石屋の仕事で石を持ち帰るのも人の手で行っていました。
昔から、北比良の国道より上と下で、天候が悪く危険な日には昼間と夜間に見に行く人が毎年いました。区長から指名され、わずかな手当をもらって見に行き、役目を果たすということがありました。その方も素人の方なので、見に行ったところで事が起きてしまってはしょうがないですが、昔はそんな方法しか危険を予防するやり方がなかったのです。
昔は学校の遠足で武奈ヶ岳へ行きました。地元の山に手入れ刈りをしに行ったり、石屋の仕事、材木の仕事など、特に誰ということもなく山に行っていました。昔は山の奥の方の土地を貸して大学や会社が利用していましたが、今はありません。山を使う人、登山者もかつて多くいましたが、それは江若鉄道があった頃です。
・今の山との関わり
今は山のことを聞いたり尋ねる人もいません。山の現状を知っている者がいません。山に入る者がまったくいないのです。今は国道より上、バイパスより上のこと(山)を知っている者がいません。私と同じ年くらいの者はほとんどが亡くなっています。私より10歳、20歳若い者は山のことを知りません。今、私でさえ北比良に住んでいることと山の関係が何もありません。山のことを話す人間もいません。山の現状を知る機会もありません。地元もよその人も山に入らなくなっています。
・ 次世代への願い
今の若い人たちに伝えたいのは、自分たちが住んでいる土地の成り立ちや、山の状態をよく知ってほしいということです。かつて、山は柴を拾ったり石を切り出したりと、生活に密着した存在でした。しかし今は、山と人との繋がりが薄れ、自分の家の裏山の名前さえ知らない人が増えています。自分の山のことを知ってほしいですが、そんなこと言ってもしょうがないのかもしれません。山に関心を持ってもらいたいです。一年を通して集落と山のつながりがあったのに、今はそれがありません。山が住民にとって身近なものになるのが私の願いです。
資料情報
・「もっこ」:『新旭町誌』、p952、新旭町誌編さん委員会、昭和60年11月3日発行