現在の天神川(昭和42年溢れた場所)
写真:滋賀県(令和4年11月撮影)
体験者の語り
県民 男性(昭和26年生まれ)
【当時の状況】
・この豪雨を降らせた低気圧は7月9日から10日にかけて近畿を猛スピードで通過しました。
・被災時は17歳で、堅田の明神橋近くの友人宅に遊びに行っていました。
・友人宅で遊んでいるうちに、降雨が強くなっていることが雨音でわかりました。
・21~22時頃、堅田小学校近くの親戚宅に移動するため友人の家から出たところ、天神川が溢れていました。現在の天神川緑地付近から溢れていたと思います。(天神川がカーブしていた付近です。)
・この付近は当時、家が少なく田んぼでした。
・溢水した濁水は琵琶湖の方に向かって県道~市道上を流下して、道路が川のようになっていました。
・道路上の濁水の深さは長靴の履口辺りまででしたので、30cm位だったと思います。
・神田神社の近くも浸水していました。
・後から聞いたことですが、同地区で天神川の溢水による水防作業のため、7月9日22時頃に地元消防団他53名が出動していました。
【その後】
・天神川の溢水箇所は被災後改修されました。(ブロック積護岸、護床)
・この昭和42年7月の水害以降は、川からの溢水で浸水したことは無いと思います。
・最近10年以内の話ですが、豪雨で下水道からの逆流によって近所のマンションの地下が浸水したことはありました。
・平成17年度に堅田観光駐車場の地下に雨水調整池が設置されました。この地域は琵琶湖に近い低地であることから、大雨が降ると浸水に見舞われていました。観光駐車場下につくられた大きな地下空間に雨水を一時的に貯めることにより浸水を防ぐ効果があります。一定水位になるとポンプで自動的に排水し、次の大雨に備えます。
【昔の台風および豪雨の記憶】
・伊勢湾台風か第二室戸台風の時に、家の屋根が強風で飛ばされそうになり、親から「屋根にぶら下がれ」(私が重りの役割)と言われました。(今では笑い飛ばせますが当時は真剣でした。)
また、当時の町内ではブロック塀が強風で倒れました。その時は今よりも建物が少なかったので、ブロック塀に風が当たりやすかった。
・堅田小学校の正門横に明治29年9月の琵琶湖大洪水の水位を示した石標があります。
【地元の水防活動】
・町内3か所の公園に自主防災倉庫を設置しています。
・水、非常食、生理用品、紙おむつ、簡易トイレなどを備蓄しています。
・定期的に水などは交換していますが、賞味期限の切れた水は生活用水(手洗いやトイレの水等)として保管しています。(災害時に給水車等で飲料水の補給はされますが、生活用水の補給まではなかなかされません。)
・土のう袋は自治会では準備していませんが、近くの北消防署に土のう袋・砂の備蓄があるので必要な場合は利用するように会員に周知しています。
・各家庭でも家族が3~7日程度生活できるだけの備蓄をするように自治会からも伝えています。
【伝えたいこと・助けあい】
・高齢者等要配慮者は把握していますが、各戸に連絡先を聞きに行っても断られることがあります。
・災害時の連絡体制を構築しようとしても、最近は個人情報保護が気になっています。
・市役所を通じて連絡先を入手できますが、漏洩時の責任のことを言われますと、そこまでして個人情報を持ちたくないと感じます。
・自治会にも入らない世帯が増えてきて、助けあいが難しくなってきました。
・何でもいいので地域のコミュニティに参加してほしいです。顔見知りになっておくことで、災害時に助け合うことができます。
・堅田湖族祭りは若い人もたくさん参加してくれています。(こういうことが大事です。自治会単位でも祭りがあればもっと良いのですが…)
・近所が助けあいすることが大事だと考えています。
現在の天神川(明神橋方面)
写真:滋賀県(令和4年11月撮影)
明治29年琵琶湖大洪水標識
写真:滋賀県(令和4年11月撮影)
堅田観光駐車場の地下に調整池
写真:滋賀県(令和4年11月撮影)
堅田学区自主防災倉庫
写真:滋賀県(令和4年11月撮影)