体験者の語り (昭和8年・9年・22年・33年生まれ)
木津で一番大きな水害は、昭和28年の水害である。法興寺上流あたりの野田川(日野川の支川)が決壊した。集落内の道は川のようになり、法興寺前の橋あたりでは、大人のへそあたりまで、水が来た。
【木津集落内の川】
木津の集落には、日野川と野田川、三在井川がある。
集落は、高低差が大きく、集落の一番高い場所には法興寺というお寺があり、その前を野田川が流れている。集落は日野川から川原に向けて、なだらかな坂になっている。
「昔は、ここは、ずっと水が流れていたんです。日野川が。」
現在の木津の集落がある場所は、かつて日野川であった。木津の集落は、もともと雨引神社のある左岸側にあり、江戸時代に現在の場所に、集団で移転してきたという。
「そやし、水が来てもしょうがないところやねん、ここ」
簡単な堤防しかない野田川は、大水になるとすぐに溢れた。溢れた水は、集落内の道や田畑を通り、日野川の方に流れた。
日野川の水かさが増しはじめると、野田川から溢れた水は流れにくくなり、木津橋右岸付近に水が溜まった。
【法興寺への避難】
法興寺は、集落の中で一番高い場所。昭和28年の13号台風では、住民の避難場所となった。
お寺に続く道には、野田川と三在井川があり、柵のない橋であった。水かさが増し、川と橋の境目がわからなくなってしまった。そのため、ロープを渡し、橋の場所をわかるようにした。住民は安全にその橋を渡り、法興寺に安心して避難することができた。
水は、法興寺の前で、腰あたりまで来た。野田川から木津の集落に向かって水が流れた。川のようであった。
【橋番】
「橋番」は、大雨が降ると、日野川にかかる橋板が流されないように、板橋をはずしに行った。板橋は、木津の橋と分かるように、「大字木津」と彫ってあった。江戸時代から昭和40年くらいまで、同じ事を行っていた。昔から板橋は村の財産なので、とても大事にしていた。
「村の中に当番があるんです。その当番の人が、しょちゅう川を見に行きます。
水というのは、じくじく、増えてけえへんにゃわ。5分も経ったら、倍の水になるんやわ。ほんで、みな、流さはるねん。今、どうもないなあ、ほんなら、帰って休憩してから、もういっぺん見に行こうか、って言うてたら、5分、10分の間に流れてしまう。」
大水で橋が流されると、橋番が板を探しに行かなければならなかった。多くの場合は、三十坪(みそつ)を越したあたりの藪に突き刺さっていたが、葛巻まで流されていたこともあった。
日野川は一度増水すると、1週間くらいは橋を架けることができなかった。対岸にある田畑や雨引神社、お墓に行くことができずに困った。