彦根市矢倉川決壊。 洪水により、農地流失
写真:滋賀県所蔵
開出今町 犬上川 南青柳橋
橋の橋脚が沈下したため、落橋した
提供:琵琶湖博物館
体験者の語り
その時、僕消防に行ってたんですよ。3名が堤防の警戒にあたっとったんです。で、「一回橋渡って、彦根の方見てこう」いうことで、3名が行きました。
他の人は、こんな水多いのに、止めとこって言うてました。橋の上は風がきつかったし、「もう、止めとけ!」って言わはるのに、僕らは「行こう、行こう。」言うて行ったんですわ。
で、彦根の方向いたらデーンと白いし、明かりがひどう見えん。こんなん、どえらいことになるど、いうことで、もう帰らんと偉いさんに怒られるからて、後ろ向いて戻ってきたら、橋がないねや。落ってしもてまんねや。ほいで、水が落ちた橋の上を流れとったんですわ。橋がないし、ほら大変なことになってた。
それでも、帰らんと叱られるし、みんなに迷惑をかける。何とか帰りたいんやけど、この落ちようがあまりにも急やって。
ほで、橋の上、水の中をすべり落ちていったけど、今度は登るときに登りきれん。さあこれは大変やっちゅうことで、3人がお互いに引きながら。上がった。幸い欄干がありましたから、その欄干を伝ってようやくはい上がったのが、この写真。折れたとこなんです。
まあ、命拾いさしてもうたな。ほいで、橋が落ちたいうて報告したら、「おまえら、そんなとこに行っとるからや。」って言われた。よう覚えてるわ。
矢倉川の決壊により、農地が浸水
写真:滋賀県所蔵
体験者の語り
Kさん(大正14年生まれ)
Kさんは、宇曽川の堤防の警戒に行く途中だった。中沢まで来たときに、向こうのほうから白いものが来るのが見えた。
「向こうの方から一丈くらいやなあ。5~6メートルの白いもんが、だーっと来よるんや。南から。水が来たんや。」
危険だと判断し、その場で集落の方に引き返した。
「わしは、妙楽寺やし、お寺の釣鐘堂に、釣鐘を叩きに行かんなんで。」
集落に戻るころには、Kさんの腰のあたりまで水が来ていた。水の中を泳ぐようにして、なんとか妙楽寺にたどり着いた。
「たどり着いて、釣鐘ついてたら、どんどん水が来るんや。ほんで、家の西の、この道なんか、もう、腰まで水が来たわ。」
Kさんのお父さんは、床上浸水に備えて、畳を上げて高いところにのせていた。家は、他の家よりも50センチほど嵩上げがしてあったため、庭に水が来る程度の被害で済んだ。
彦根市消防本部の資料によると、北町(現在の西清崎)で決壊したようである。
Kさんの記憶では、これほどの大きな水害が起こるのは、初めてだったという。ある人は、寝ていて背中が冷たくて、床上浸水に気付いたという。前日まで堤防の警戒をしていたが、雨が止んだため、堤防の警戒を終了し、家に帰った。安心して寝ていたところに、水が押し寄せてきたのだという。
日夏では床下・床上浸水の被害があった。
Yさん(昭和26年生まれ)
Yさんの家は、Kさんと同じ日夏の妙楽寺にある。妙楽寺は、日夏の中でも一番低い場所にある。Yさんの家は床上浸水の被害にあった。
「僕のとこでも、床上浸水。完全に。畳を全部上げて、箱の上に畳を全部乗せましたわ。隣に蔵があったけど、蔵に米が置いてあったらあかんで、天井から吊り上げて、二階まで米をあげてはった。」
彦根市内の農地が流出
写真:滋賀県所蔵
体験者の語り
【伊勢湾台風の凄さ】
・わが家では父親から「辰巳(東南)の風はよく気をつけろ」とよく言い聞かされていました。その言葉の意味をまざまざと知ったのは、昭和34年9月26日、高校3年生の時に午後から夜にかけて近畿・中部を襲った伊勢湾台風です。
・この台風は水害よりも風が怖かった。河川のはん濫の心配はあまりありませんでした。
・この時期には今の住所に転居していましたが、わが家の周りにはまだあまり家が建っておらず、東南の方向から、強い風雨が吹き付けていました。
・吹き付ける風雨で東南の壁土が落ち始め、見る見るうちに穴が大きくなっていき風雨が部屋の中に入り始めたので、すぐに外に出て土壁に板を打ちつけました。
・でも、本当にこの台風の恐ろしさを感じたのは、この後、数時間近く続けた台風との戦いでした。
・普段の戸締りは、縁側の廊下沿いにガラス戸8枚で閉めていました。台風の時は、その外側に木製の雨戸で強い風雨を防いでいました。
・これで安心だと思ったのは大間違いで、だんだん風雨が強くなってくると、雨戸がしなってきて外れそうになるのです。家族総出で8枚の雨戸を分担して受け持ち、外れないように手で支えていました。
・この時、「風は、息をするように吹く」ということを初めて知りました。
・台風の風は、外から強く押すように吹いてくるときもあれば、急に雨戸を吸い出すような吹き方をします。雨戸の細い桟を持ち、家族総出で雨戸を何時間も両手で支えるということはとても疲れました。もしも、誰かの支えている雨戸が1枚でも外されると、強い風雨が入り込み室内が吹き荒らされて、場合によっては家が倒されます。それから数時間、食事も水も取れず、雨戸を持ったまま、台風が通過するのを待ちました。
・この伊勢湾台風の中心が、彦根の上を通りすぎたこと、名古屋や伊勢湾の沿岸で高潮が発生したこと、死者・行方不明者5098名を出したことを後日知りました。
・屋根瓦などの飛来物も多くありました。
・周りの家では釘が錆ついていたため、釘の役目をはたさず鉄板屋根が飛ばされていました。現代のスクリュー釘があれば、釘も抜けにくいのですが、当時はありませんでした。
・また、昔の屋根瓦は土で接着していて、ところどころ針金補強で止めていた程度だったので飛ばされやすかったと思います。
【その後の対策】
・かなり後になってから、中山道の下に暗渠排水管が整備され川の水を流すようになりました。
・自宅の土壁は板戸で打ちつけるなどの対策もしたがあまりよくないと思います。板戸は反ってしまうので土壁の上にトタンの板を張りました。板の用意は常にしていますが。
【伊勢湾台風後の経験】
・昭和54年~昭和60年頃に高宮小学校で勤務していたときの体験ですが、台風がきて、犬上川にかかる無賃橋の左岸付近の堤防が、見る見るうちに、崩れていく状況を目撃しました。
・増水による激しい勢いの水で、まず下部から土が流され、それを覆っていた堤防のコンクリートの表面が崩れていきました。次第に堤防内部の土も流失して、堤防がどんどん崩れていきます。その壊れていくスピードは本当に早くて、あれよあれよという間でした。
・そこにユンボやクレーン車で石や土砂を投入しますが、水の勢いが強くて効果がなく、ますます壊れていきました。
・その時、消防団の方が大きな枝をつけたままの杉の大木の上部と下部にロープをつけて、崩れていく堤防の水の中に沈めて水の勢いを弱めようとされていました。
・これは昔から伝わる緊急工法「木流し」だと聞きました。何本も木流しをされて、ようやく崩れる速さが遅くなっていくように感じました。昔から伝わる先人の知恵というものはすごいものです。
・それにしても、堤防というと見た目はしっかりしていますが、一度崩れ始めたら、本当に崩れるのは早いものだと、恐怖を感じました。
【地元の水防活動】
・防災組織を作って新興住宅も組織の中に入ってもらい年1回訓練しています。
・防災倉庫も4か所設置して、非常用発電機や緊急時の工具(ジャッキ)等を保管しています。
【普段の備え】
・非常用長期保存水や炭2~3俵、非常用食料を用意しています。食料品は定期的に入れ替えることも大事です。
・町内の小川で直角のようになっている水路があり、そこから水がザーッと溢れるのでいつも注意して見守っています。
【楽しい思い出】
・普段から芹川や田の小川は遊び場でした。うなぎがたくさんとれました。ヌルヌルしているのでうなぎが暴れないように頭に釘を打ちつけ捌(さば)いていました、あれは美味しかったです。
・「あぶらけ」という魚(別名アブラハヤ)もいましたが、あまりおいしくなかったです。
・鮎もいましたが、今はあがってこられないようです。
・昔の芹川は常に水が流れており泳げるほどでした。結構深くておぼれて死にかけたこともあります。川の底に砂が溜まっていて足をとられる感じです。
・今はそんなに流れていませんが、当時は川の流れがきついので草も生えていませんでした。
・白っぽい粘土があって団子にして遊んだ記憶があります。
・近くにある鞍掛山でもよく遊んでいました。鞍掛山の名前は馬に鞍(くら)を掛けているイメージで名前がつけられたそうです。