米原市柏原
提供:柏原自治会
中井川が氾濫
米原市柏原 中井川
提供:米原市柏原自治会
体験者の語り
【市場川の決壊】
昭和34年8月の台風7号により、市場川下流の右岸が決壊し、上流から土砂が流れ込んで民家が土砂に埋まるという被害が起きた。
その1ヶ月後、台風7号で決壊した周辺の復旧作業の途中で、水はけが出来ない状態の中、伊勢湾台風が襲来。
その結果、その上流の左岸が決壊。また右岸も溢水し、JR線路へ流れ込み、あたり一帯が浸水した。さらに台風7号の市場川決壊によって土砂に埋った民家が、伊勢湾台風でも土砂が流れ込むという被害に。市場川周辺に住む人々は恵比須神社へ避難した。
【お墓の棺桶、流される】
丸山墓地に埋葬されていた遺体が、土砂災害により天野川に流出。京極橋にいったん止まり(流木が京極橋で詰まっていたため)、町道へ流れ柏原集落内に入ったところで、消防の人に発見された。
【ミソもクソも一緒】
当時は「くみ取り」便所だったので、集落に流れこんできた水に汚物なども混入した。中山道の西側は土地が低いため、路地など集落内に水が流れ込んだ。
【中井川の様子】
国道まで土砂が埋まり、自衛隊に掘り下げてもらった。土石流で埋まってしまった欄干の上まで水がかぶり、断面がなくなっている状態となった。
米原市世継 蛭子神社
参考資料:近江町史
体験者の語り Aさんの体験談 (大正12年生まれ)
【霞堤の働きが如実に出来た】
世継にある霞堤から水が溢れたのは、朝方です。世継の方に台風が来るときは、霊山の方からの風が強くて、最後には琵琶湖から風が吹いた。
その時、土のうを積む準備をしてました。世継より少し右岸上流・五反田に天野川の遊び地がありましたから、そこで”番”(消防団たちが水防活動で見張りをすること)や警戒しまして、土のう積みの準備をしていました。けど、土のうを作るための土を取るところがないんで、田んぼの砂を運んで、土のうを積むという準備を消防がやったわけです。そして、決壊せずにすみました。
世継の消防団員は13人です。区長のもとで、班長は経験者で年がいってるけど、後は20代の人で組織をしています。
集落の被害としては、農作業小屋が倒れたことがあります。住宅が浸水したところも、一部あります。排水路が狭く、勾配がないところは浸水しました。それで、住宅が浸水したところは、家の地盤をあげ、字で排水を行いました。
【家を守る女性たちの智恵】
逃げた経験はありません。各個人で”番”をすることはありますけど、避難することはなかったです。
私は消防で出ていたので、家内と母親の二人が畳を上げてました。雨戸を風でへし折られないように、畳を雨戸にもたれさせて。そしてその畳を持っているわけにいかないので、畳を縦に立ててそれを別の畳で倒れん様に押さえると。こういうような女子だけの知恵でやって、「大変苦労をした」と、家内がよく話をしました。
私ら青年は、家を守るのではなしに、集落を守るというので外に出てますから、女性も苦労しました。
【田んぼの被害】
伊勢湾台風では、なかなか琵琶湖の水が引かなんだ。琵琶湖の水位が上が、り田んぼは水浸きとなった。この周辺の状態は冠水して、収穫が出来なかった。開墾地では、20日ぐらい浸水してました。
【畑の被害】
そりゃ、むちゃくちゃです。田んぼは次がききません。年一作ですから。
稲作以上に、畑は全滅です。雨でたたかれ、ネギなんかでも倒れてしまう。ほうれん草でもやられてしまう。でも畑は、新しい苗を植えれば、またすぐに収穫できます。皆慣れてますから、すぐに作業しました。
米原市箕浦
提供:佐和氏
体験者の語り Aさんの体験 (当時22歳)
一番怖かったのは、箕浦橋から箕浦の住宅に入るところの土手(天野川右岸の堤防)が、崩れてきたことですわ。ジワジワと水が湧きだしてきて。
当時、私は青年団で、消防団の応援に出動してくれと言われて、土手が崩れてくる場所に、みんな集まりました。お地蔵さんがあって、この辺の土がゴロゴロゴロゴロと落ちてきました。「土のうを積んで、堤防に当ててくれ」と言われたけど、土のうにする土はあらへんのや。だから、田にあった土を入れて、土のうを並べた。
ほんまに土手から手が洗えるほど、天野川の水は満杯やった。ここの箕浦橋から箕浦の住宅に入る土手がゴロゴロと落ちだしてザ~っと土手が切れたら、箕浦集落は全滅やわな。
一生懸命、水防活動をやっているうちに、「下が切れたぞ~」との声がして、水がサ~っと引いていった。箕浦橋から600m下流辺りの右岸が決壊したんで、よかった。下流が決壊せなんだら、ここのゴロゴロ落ちていた部分が決壊してしまうところやった。
決壊したところから、土砂がザ~っと田んぼに流れ込んでしもうて。そして自衛隊が来て、流れ込んできた土砂を撤去してくれた。
箕浦の集落内の被害は、お宮さん(八幡神社)の横の川が増水して、その周辺は床下浸水。区長さんからの避難の指示があったのは、夜。私が青年団で出たのも、暗くなってから。
永福寺に避難した人もいた。ワシのおばあちゃんは宝福寺に避難して、台風が過ぎ去ってから家に帰ってきた。
後から聞いた話やけど、昔の人らはよう考えて、民家のないところに弱い土手を造っとかはったっていう話を、聞いたことがある。
それと昔、箕浦の集落を守るために、箕浦の対岸にある岩脇の堤防の方が低かったらしい。そして、洪水が来るたんびに、河川の石垣がくだける。それで山から木を伐っては、淵に木を埋め込んで石を入れて補修を、毎年総出でやってはった。水害があるたんびに石垣が流れてしまうから。村中総出で、「ヨイトマケ」を引っ張って、上でかけ声とか歌を謡ったりとかしていた。
その後、箕浦橋は1mほど上流に移動し、大応寺箕浦間の左岸が後退し、川幅も拡張されて、現在の姿となっています。
稲が腐って、田んぼのそばを通るたびに臭かった。そして自衛隊が来た。
天野川上流の被害状況としては、隣の新庄も、床下浸水のところが結構ある。新庄橋はしょっちゅう流れてた。あのころは流れるのを覚悟で、橋板にワイヤーをつけて、とりあえず括っといたわ。流れてもいいように簡単に。
台風の後は、よく橋板が流れてきて、新庄橋のではないと思うけど、それに乗っては遊んでた。浮かべて舟の変わりに。
【新幹線高架問題について】
昭和31年11月、東京・大阪間に広軌新幹線を作る計画がなされ、昭和35年3月に、新幹線の高架は盛土式にしたいとJR側が地元に提示。それを受けた地元住民は、箕浦対策委員会を結成した。
元国鉄の建設関係の技師が中心となり、「新幹線のところは、絶対に高架にせなあかん」と盛土式に反対。昭和34年8月の台風7号や9月の伊勢湾台風によって、天野川の多くの堤防が決壊して水害が起き、危ない目にあったことから、「このような場所に盛土式の軌道を建設してしまえば、大水の時に盛土が堤防になり水が溜まる」という要望書をJR側に提出。
箕浦集落の人たちは、集落を守るために粘り強く反対運動を行い、その努力の結果、全面スラブ式高架となった。
【国道8号線バイパス問題】
新幹線の上流に、国道8号線のバイパスが通過することは、箕浦にとって重大関心事であった。
天野川の右岸取り付け部分を盛土にするという国の計画に、箕浦は橋梁に改めてほしいと陳情する。交渉は難航したが、結果としては、地元の要望に応えた橋梁になった。
国道8号線バイパスは昭和45年2月に開通。地元の方は、「抜いてあるところもあるけど、盛土のところもあるし、だいぶ狭めてある」と不安をこぼしている。
米原市長岡
提供:田中萬和様
体験者の語り
【新天野川橋から 回り込んできた】
昭和34年当時は、旧山東町役場が現在の場所に出来たところで、周辺は田んぼばかりでした。
天野川の水が、「グ~」と上流から役場の方に周りこんで、流れてきました。新天野川橋で流木などが堰き止められて、水が役場側に迂回して流れてくるんですね。そして、下流へ流れていく。中山道より下流側、役場側の土地が低いので、新天野川橋から回り込んできた。
濁流によって、流木が流されてくるんで、家の柱にぶつかってね。家が壊れないか心配でした。夕方から水が増えてきて床上浸水の状態になってましたね。
一番困ったのはトイレですわ。小便なんかは、いわゆる”下段”という、一段低くなった板の踏み台から庭に排出をしていたという状況ですわ。
避難場所は小学校やけど、そこまで行くのが大変で。夜やから行けへん。
【避難の状況】
昼間から避難勧告が出ていたと思うんですわ。ひと月前の8月にも(昭和34年8月台風7号)、集中豪雨があったんで、たくさんの方が避難されたんですね。
「これは2回目やし、もっと凄い」ということで、おそらく1回目(昭和34年8月台風7号)に大変な被害を受けた人は、学校に逃げていったと思います。
我々は、自分の家を守るために見張りをせなあかんわね。どんだけ水位が上がってくるのか、全く見当がつかんわね。段々と水が増えてくるし、「床上浸水間違いない」ということで、一段高くなった座敷へ畳を上げて、「最悪な場合、畳を上げた上で寝ればいいわ。」ということでした。
座敷が二間あって、奥座敷の方が一段高くなっていたので、そこに濡れたらあかんものを置いていた。
明くる日になったら、水がス~っと引いていった。水に濡れた家具とかの処理の方が、大変だった。
炊き出しで握り飯を頂いたのは、知っている。水が使えない。薪で煮炊きをやっていたけど、水に浸かって、火も使えない。
長岡の自治会で、そのような炊き出し当番が決まってたと思う。その人達が中心になって、配って歩いてたと思う。おそらく自治会の役員で、12組ぐらいあったんかな。奥さんやら、来てくれる人で炊き出しをやってくれたと思います。
この台風の時、私は大学生でした。伊勢湾台風で被害があれば大学に申請するよう掲示があって、申請したところ、大学の授業料を半額にしてくれたんです。研究室の教授が、見舞いに来てくれたということを聞いているんですが「たいしたことない」と、そんな風に言われたのは記憶に残っています。
水が引くのが早かったから、一生懸命みなで後始末した。
特に、害虫が発生するので、石灰を撒いて。水がよどんでいるところは、とにかく臭い。
井戸はしばらく使えないので、役場の前に給水の車が来て、そこへ水をもらいに行かなあかん。缶詰なんかの支援も、多少あったと思う。
長岡より柏原の方が凄かったので、復旧に自衛隊が行ってると思う。前の8月の時は、(昭和34年台風7号)は長岡にも自衛隊が来たということを聞いています。
【伊勢湾台風後、ホタルの様子】
昭和34年の2回の台風の影響により、川の河床が全部洗われ、蛍の幼虫もカワニナも全部流され死んでしまって、ホタルが減少した。
蛍祭りを熱心に行っていたが、蛍どころではなくなっていった。カワニナがいない川で蛍が育つのは絶望的だということで、天野川の上流に飼育施設を造り、カワニナを飼育してホタルを増やそうという活動が起こった。
村居田 市道橋付近
参考:社団法人 近畿建設協会『近畿水害写真集』より
体験者の語り
Mさん(昭和7年生まれ)の体験
龍ヶ鼻会館付近から、姉川の方を見たら、水が波打っていました。白い波でした。ざーっと川の流れる音が聞こえました。
その後、姉川に様子を見に行ったら、堤防の竹やぶのところまで、水がいっぱい来ていました。姉川と出川の合流部分より、少し上流あたりが決壊しました。水が引いていく時に、堤防が削られ、田畑が流されました。
Fさん(昭和10年生まれ)の体験
伊勢湾台風の後、まだ、家は水に浸いていました。みそもくそも一緒で、うんこがぷかぷか浮いていました。
Kさん(昭和5年生まれ)の体験
大水の後、救援物資として衣類をもらいました。その衣類は、大人用だったので、子どものために、仕立て直したことを覚えています。
体験者の語り 地元男女18名による 聞き取り日:平成26年8月9日
【この調査は、立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】
この年は、8月に台風7号による豪雨で河川の氾濫等による土砂崩れが続出。
その復旧もままならないうちに、さらに大きな伊勢湾台風の襲来で、広い地域に渡り洪水を起こした。
彦根で台風の目を確認している。
「昭和28年台風13号と同じように大きな被害だった。橋は流され、道路も壊れ、大きな被害だった。」
地元の方たちの体験から、昭和13年の水害・昭和28年台風13号・昭和34年伊勢湾台風・平成25年台風18号の水害をまとめてあります。
上丹生水害履歴マップ1「概要版」
上丹生水害履歴マップ2「昭和13年・昭和28年台風13号・昭和34年伊勢湾台風」
上丹生水害履歴マップ3「昭和46年台風23号・平成2年台風19号」
上丹生水害履歴マップ4「平成25年台風18号」