米原市柏原
撮影:彦根地方気象台
提供:琵琶湖博物館
米原市柏原市場川
提供:米原市柏原自治会
体験者の語り Aさんの体験 (昭和23年生まれ)
【市場川右岸決壊 市場川下流の家が土砂で埋まる】
当時Aさんは、米原に勤めていた。雨の降りがひどいため、上司から帰るよう告げられ、夕方5時頃帰宅。柏原駅から自宅の前の市場川右岸の土手を歩いていると、川の水がもう30センチぐらいで溢れそうな状態であった。水面を覗くと渦を巻いていため、おかしいと思い、早足で自宅へと向った。
自宅に戻り、「上に上げるもんは上げな。」と家族に伝え、お仏壇を座敷の真ん中のテーブルの上に置いたが、市場川右岸堤防が決壊し、家財が一部流出。
決壊による土砂が家に流入したことにより、Aさんの自宅は河原の中に家が”チョン”と残っている状態となった。更に決壊後の市場川の川底は、上流からの土砂が堆積し、土手と変わらないぐらいの高さとなった。復旧には、災害救助法が適用され、自衛隊が駆けつけてくれた。
堤防が決壊する前、Aさん家族は家の前の堤防に避難。付近にいた消防団と近所の人たちが一緒になって、堤防の下にいるAさん家族を救出。Aさんのおばあさんは、男性が背中に背負い救出された。Aさんご家族は当分の間、近くのお寺「明原寺」にお世話となった。
【JR線路、決壊をまのがれる】
市場川の堤防決壊による氾濫により、JR線路の決壊がまぬがれた。水はJRの高架下を通り、向山へと流れていった。
【中井川の氾濫】
天野川との合流地点で上流からの土石が堆積し、天井川のようになり氾濫した。復旧には市場川と同様、中井川にも自衛隊が駆けつけた。
【消防団、運を天に任せる】
天野川左岸の清滝と、右岸の柏原それぞれの消防団が堤防に出動。清滝消防団員よりも柏原消防団員の方が人数は多く、人力的な差があった。そのため、権威者であった柏原消防団長が「両方土嚢を積むのをやめよう」と呼びかけ、堤防が切れたほうが災難だとし、各消防団の水防活動を止めた。
米原市長岡
提供:田中萬和様
体験者の語り
【初めての床上浸水】
8月やで、夏休みで家にいたんかな。初めて床上浸水になったので、ビックリしました。
「近江長岡駅よりの上流の土手が崩れそうや」ということで、土嚢を積んだというのは聞いているんです。現場もちょっと記憶に残っています。
体験者の語り 当時22歳
風が強かったです。
当時、私は青年団に入っていました。青年団の事務所に風がビュービューきて、窓が壊れそうやった。どうしようもないので、窓が飛ばないように、机を内側からあてたという覚えがあります。その時の被害の記憶はありません。
体験者の語り (大正15年生まれ)
私は、山東町役場に勤めていました。水害の時は、勤め先の役場にいたため、村居田にはおりませんでした。役場では、昼も夜もなく、ろうそくをつけて、待機していました。
役場の日誌によると、昭和34年8月13日に天野川が荒れました。姉川については、鐘が鳴って、烏脇と村居田の消防団が出動しました。村居田は半分くらい、水が浸いたようです。