体験者の語り 大正11年生まれ(女性)の水害経験談
10月7日、Aさんは夜10時頃に寝床につく。堤防が決壊したことに気づかず、眠りについていた。目が覚めると、床上浸水の状態になっており、そこで初めて堤防が決壊したことに気づいたそうだ。
Aさんのまた従兄弟がミノを着て、綱を持って、Aさん姉妹を救助しにきていた。裸足で薬師の正念寺まで避難。従兄弟に綱を引いてもらいながら、土手の段々畑を通り避難をするが、道が掘れているところに填り死ぬ想いをしたそうだ。
水害後、一年間ほどまた従兄弟の知り合いのお宅へお世話になる。自宅にあった味噌と醤油が入っている樽だけは、渦を巻いた砂の中に埋もれていたが助かった。お米も大丈夫であった。
昭和19年の小口水害(概要)
■夜、集中豪雨により、区長は関係者と共に危険箇所を巡回、安全を確認。堤防から危険水位に達していないと判断し、集落の人々に避難を呼びかけなかった。
■午後11時30分頃に祖父川右岸、小口地先決壊(小口八重谷線と右岸堤防が交差するところ)。小口集落、水害に遭う
■家屋の流出 二棟倒壊
■土砂で埋まった家屋 5軒 (そのうち一軒の人が、薬師の正念寺へ避難)
■床上又は床下浸水 約30戸
■田畑の流出 約2町歩
■堤防の土台は砂であり、水害防備林と共に流出。水害防備林は、鉢植えの様な感じで流出。泥水ではなく砂水。
■竜王大橋が浸き、祖父川左岸(現:ゲートボール場)が浸水。田んぼの水を守った。
■”中の道”が川のように水が流れる(現:びわこ銀行竜王支店から田んぼへと流れる)
■善法寺に避難された方がいる
■小口の人々には警戒心がなく、決壊するとは思ってもいなかったことが、水害へ繋がる。
■警防団はあったが、危険を促す鐘は叩かれなかった。(区長は、小口住民に避難を促すことなく、自宅の避難準備をしていた)
■子供が一名死亡。 母親の背中に背負われていたあかちゃんが、避難中の母親の下敷きになり死亡。
■堤防が決壊場所の復旧作業に、10月9日から14日にかけて、鏡山村と苗村から応援があった(報酬制)
■堤防が切れたにもかかわらず、水が浸水しない地域は無関係な顔をして寝室に戻る人もいたという。