【野洲川の決壊】
現在の野洲川下流は、1979年(昭和54年)に通水した放水路。
それ以前は、河口から5kmの竹生(たけじょう)付近で、南北二つの川に分かれる河床が高い天井川で、三角州を形成していた。そのため、およそ10年に1回の割合で水害が発生。とりわけ、昭和28年9月の台風13号による野洲川決壊は、大きな被害をもたらした。
昭和28年9月25日、台風が通過する前から秋雨前線の活動が活発で、雨が降り続いていた。
夕方5時頃、台風13号は三重県志摩半島に上陸して通過。滋賀県の風雨はどんどん強くなり、旧野洲川北流沿いに広がる兵主村(現野洲市)の集落では、警戒を強めていた。夜になり、さらに激しい風雨に野洲川はいよいよ増水し、堤防が漏水し始め危険を感じるなか、ついに26日深夜、北流右岸六条地先の堤防が195mにも渡って決壊し、濁流が井口の集落めがけて流れていった。
洪水の勢いは強く、集落や刈り取り直前の田畑は一瞬にして水没し、甚大な被害をもたらした。
この決壊場所付近で水防にあたっていた3名が亡くなっている。重傷者は170名、流出・半壊家屋は1,713戸。
旧野洲川は天井川で、集落の方が土地が低いため、決壊口からの流水は、築堤工事で口がふさがれるまで、1か月近くも続いた。半壊・全壊し、浸水の止まない家屋で、人々は長期の耐乏生活を強いられた。
当時は重機も少なく、復旧工事も大変な時代で、保安隊(自衛隊の前身)によりまだ珍しかったブルドーザー4台が持ち込まれた。工事には手作業も多いため、近隣の集落から多くの人々が復旧工事応援にたずさわった。
同じころ、野洲川は、速野(はやの)村(現守山市)を流れていた南流でも、今浜・笠原地先の2か所で堤防が決壊している。
これを機に、南北二つに分かれていた野洲川を1本化するという大改修が、8年かかって行われ、昭和54年(1979年)現在の野洲川、新放水路が通水した。以後、野洲川の水害は少なくなっている。
(引用資料 「広報やす 歴史の小窓66・111」
及び「国土交通省HP>統計・調査結果
体験者の語り 男性 77歳(昭和12年1月25日生) 聞き取り日 平成26年8月7日
【勉強してたら、バシバシバシという凄まじい音が聞こえてきた】
9月25日は、朝から強い北風が吹き、風雨が強かった。
うちは、学校のそばなんで、遮られて北風はあんまり受けなんだ。
野洲川が増水してきてるので、消防団員だけでは手が足りないから、一家に一人水防に出てくれ(消防協力員)ということで、お父さんは、晩御飯を食べて出た。長靴履いてスコップ持って行きはった。夜7時半か、8時頃やったと思う。その頃は、小雨になっていた。
私は、当時高校1年生で、明朝土曜日に試験の予定やったので、勉強してた。そのうち台風が通り過ぎたのか、風雨がおさまり、月明かりが差してきた。けど、バシバシッバシバシッという、木の倒れるようなすさまじい音が聞こえてきてた。その頃、堤防が決壊したんや。26日の夜中12時半頃。
そのときは雨は降ってなかったけど、上流の増量した水が下流へ流れてきて、決壊したんや。
うちは、少し高いところにあったので、水は受けなんだ。近くで荒物屋の店をやってたけど、そこは浸いた。よそは、5・60cmぐらい浸かってたと思う。
【水防に出たお父さんは・・】
夜中3時頃になっても、帰ってこなかった。
流されてるとは思ってもなく、どうしたんやろ、川向こうに親戚があるので、そこへでも行ってるのかというてたけど、おとうさんは、朝10時半ごろ現場近くで見つかった。靴も履いてなく、洪水に流されてたんや。
神社は少し高いところにあったので、田の仕事をするのに大切な、牛の避難場所になっていた。当時、機械がないので、牛に農耕を助けてもらってたから、牛は非常に大事やった。全部ではないけど、それぞれ連れていってはった。
牛の避難場所は、六条地区は兵主神社、井口は千原神社、須原は苗田神社やった。
中主中学校と法蔵寺が避難場所やった。何時間かして落ち着いたら、それぞれ家に戻りはった。一部、長らく避難生活をしてる人もあったけど。
本流は須原の方に流れていって、一面床上浸水やった。
1週間ほどして濁流は引いていった。けど、決壊口の堰き止めができるまで、水は家の周りをひと月近く流れていたとこもあるようや。だんだん濁流がおさまって、水は普段川を流れてるような、きれいな水になっていったけど。
【参考】「滋賀新聞 昭和28年10月10日付記事より要約」
台風13号で、野洲川南流川下に土砂がうず高く積もり、川の流れが変わって、北流に、より多くの水が流れるようになったため、10月10日現在も、北流の兵主村井口・須原・堤の集落はひざまで浸水している。
堤防決壊箇所の復旧作業にも困難を来しているため、兵主村村長は、南流側の速野・川西両村長に、流れが均等になるよう、分岐点の竹生(ちくじょう)河原に土のう300俵を置くこと、堰き止め工事完了後は撤去することに合意を求め、了解実施された。
【写真提供:辻川信義氏】
【決壊現場付近から撮影された写真】
決壊箇所付近の堤防の松林。水勢に倒されている。
田も道も冠水して、舟で移動(中央)
兵主神社の楼門前。舟で移動して状況を視察
兵主神社参道の、松並木が倒されてしまった箇所
水が押し寄せ、泥沼と化した中主中学校のグラウンド
中主中学校の2階が、被災者の避難場所に解放された
【復旧工事の様子】
地元村民や近隣の集落から応援に来た人も奉仕
急がれる川の水の堰き止め工事
一面浸水し、荒れた田や壊れた住宅
提供:辻川信義氏
少し水が引いたところ。西徳院前より見える家に水跡が残っている。
提供:辻川信義氏
体験者の語り 地元住民男性6人 聞き取り日 平成26年8月
【この調査は、立命館大学歴史都市防災研究室と協働で行いました】
昭和28年9月26日深夜、野洲川の六条地先が195mに渡って決壊し、濁流が集落を襲った。野洲川からの洪水が直撃し、一帯は、床上浸水など甚大な被害を受けた。
上記写真に、水跡と、田舟で移動している人たちがみえる。
「堤防が決壊したとき、木の根が引きちぎれるすごい音がした。音で、切れたことがわかった。月明かりで、向かってくる波が見えた。
破堤による洪水は、現在の国道477号の盛土で跳ね返されていた。その後、477号を越え、須原地先方面に達した。決壊からおよそ30分経ってから、須原へ到達した。
当時は電話がなかったので、堤防決壊の情報は、言いに回った。
大事な労働力の牛を田舟に乗せ、苗田神社に避難させた。住民は、集落でもっとも高い西徳院に避難した。」
立命館大学歴史都市防災研究室が、平成26年8月1日に、須原(すわら)の方に聞き取り調査を行いました。
六条からみる 井口の水没家屋や流失した田
提供:辻川信義氏
体験者の語り 男性 (昭和8年生まれ)
【野洲川六条地先の堤防決壊】
吉川は野洲川の一番下流で、湖岸に向かって、集落があって、畑があって、一番湖岸側に田んぼがある。順に低くなっている。野洲川沿いで一番下流やので、土地は一番低い。
琵琶湖岸に面してるので、大水の時は、琵琶湖の水の増量と野洲川の増水と、両方に注意しないといけない。
昭和28年台風13号の時、野洲川決壊の洪水は、幸い吉川の集落の中は通らなかったので、家の被害はほとんどなかった。
しかし、田んぼや畑は、上流側の畑が泥をかぶり、ぐーっと水で押し流されて、その土が下流側の田んぼへ落ちる。田んぼは稲の上に土や泥をかぶって、湖岸の方へたくさん流出した。
琵琶湖の水も、大雨で増水してるうえに、北風がきつかった。
野洲川の下流は北向いて流れてるので、北風で琵琶湖の水が逆流してきて、流れにくい。それが溢れてくるし、野洲川の切れた濁流が流れてくるしで、田んぼや畑は全滅や。
この流れた土を元に戻すという復旧作業が、大変やった。まず田んぼの土を上げて畑に戻さんと、田んぼにならへん。畑は、流出した土を戻さんと畑に戻らへん。
あの時分は、みなで協力するという気概があって、村総出でやったし、親戚やらも手伝いに来てくれはった。戦後やし、戦死者の家やったら女の人だけで、女でそんな仕事できませんやん。今みたいな重機はないし、トロッコ押して、順番に復旧して畑作っていかなあきません。
洪水になったら、自分とこの田畑がどこやったかわからへん。直すのにやっぱり、半年ぐらいかかった。
水は、普通は上流からの流れが合わさって、増えて流れてくるけど、台風13号の時は、屏風立ていうて、いっぺんに水かさが増して、一気にバーッと流れてきたと、当時のお年寄りから聞いた。もう、前もってああするこうするという余裕はない。
田は、ちょうど実がなってきたところで水に浸かって。
ほんで、水だけと違う。家も壊れて流れてくる。材木もたくさん流れてくる。当時、材木は上流で切って貯蔵してたんで、それが流れてくる。
木造の橋もほとんど流された。橋の桁にそんなんが引っ掛かると水が流れへんから、堤防の上で番してもらってて、ロープを体に巻いて飛び込んで、引っ掛かってる材木を流す。そういう危険なこともやった。
水は濁流で、流れも渦を巻いてた。それはものすごい。
で、水がバーッと回ってるから、土がみな掘れて。
水がパッと引いたら、すり鉢みたいにごっつい穴が、あっちにもこっちにもあっちにもこっちにも開いてる。
ほんで北風がきついから、琵琶湖の水を、こっちへ押してますわな。そやから、対岸の小松やらの湖岸の水がだーっと減ったいうことや。みな、こっちへ押されてきて、こっちは水位が高こなって。
農水用に琵琶湖から水を上げるのに、発動機やらがあったんやけど、そういうもんは全滅。小屋やらも流れてしもて、ない。
湖岸には堤防はないからなあ。水が入ってきたら、田んぼは湖(うみ)になる。そうなったら、田んぼも畑も植えてあるもんが流れてしまう。
私ら下流なもんで、ふだん川にビワマスやらがいるんやけど、水がいっぺんに引いたもんやから、竹やぶの深みに魚が残ってたり、サツマイモのつるの中にいたりした。魚も逃げるひまがない。
うちは無事やったんで、親戚の家の復旧の手伝いに行ったけど、床下には水が流れてた。もうそのあたり、家は流され墓地が流され、大洪水で大変やった。
もう、口で言うててもわかりませんなあ。悲惨なもんです。
こうやああやいうても、その場を見たもんやないと想像はつかへんわ。
【野洲川南流の笠原と今浜も決壊】
当時、野洲川は南流と北流に分かれてた。吉川は北流の下流。北流は六条が切れてる。南流は、笠原と今浜(現守山市)の2か所が切れた。今浜は、南流の一番下流。
【デーーーンという、笠原の堤防が切れるでっかい音を聞いた】
私は当時学校出たとこで、百姓をしながら、農協の仕事も手伝ってた。車の免許も持ってた。
昭和28年9月25日深夜、集落で保管してる米を守るため、貯蔵倉庫へいった。
そこで、農協の人から、野洲川が決壊して米が浸かると大変やし、土のうを作る俵やらかます(ムシロを二つ折にして作った袋)を、守山の駅前にある倉庫に取りに行ってくれと言われて、行った。当時は米は配給制やから、政府米を預かってるので、水から守らなあかん。
で、いつも通る浜街道を通って、洲本から守山へ行った。
当時野洲川は2本に分かれてたので、北流の橋を渡り、さらに南流の橋を渡って、今でいう琵琶湖大橋取付け道路やな、そこを通って守山駅の方へ行った。
荷物を乗せて、帰りも同じ道を自動車で帰ってたら、南流の笠原あたりで、堤防の下の集落の人がみな、出てきてはりますやん。大八車(だいはちぐるま)やリヤカーに、荷物やら牛やら乗せて。牛は大事やし。
もう野洲川が切れる、危ないいうて、河西小学校へ避難しはるとこやったんや。
私らも、ほら早よ行かなあかんて、急いで、南流の洲本の列系図橋(れっけつばし)の辺りまで来たとき、デーーーンとでっかい音がした。
びっくりして、急いで橋を渡ったら、向こう側に水がきた。それは、笠原の堤防が切れた音やったんや。その音を聞いたんや。
私は南流の橋を渡ってしもてたから、助かった。もうちょっと通るの遅かったら、トラックぐち流されてるとこや。
南流は、もっと下流の今浜が先に切れてた。それでも足らなんだんで、上の笠原でも切れたということや。
それで急いで吉川に帰ってきたら、北流の六条がもう切れてた。そやから、せっかく取りに行ったかますやらは、「そんなん、もういらん。」て言われた。
【移動は舟】
うちらは湖岸やので、百姓してはるとこは、たいてい田舟を持ってた。まだ自動車もあんまりないし、農業用の物の輸送も、ほとんど舟でしたんや。
田んぼに沿ってクリーク(堀)があって、舟は長さ2~3 mぐらいの大きいもんやで、家に近いクリークにいつも浮かべてる。竿を使って漕いで行った。
大水が出たときは、道が歩けへんから、舟で移動した。
クリークは、今は埋めてしもて道路になってる。
【昭和19年8月15日の台風】
覚えてるのは、避難命令が出て、お寺に避難した。大雨で畑なんかが流出したけど、第2次世界大戦の戦時中で、若い力のある男の人は戦争に行ってていないので、人手がないから、田畑の復旧はできなんだ。
浸水後1週間経っても、まだ水が流れてきていた。家の玄関もひざ下ぐらいまで、浸水したまま。
提供:辻川信義氏
体験者の語り (昭和3年生まれ)
昭和28年13号台風の時、野洲川北流の右岸にある、井口の堤防の警戒にあたっていた。その時、隣の集落である六条の堤防が決壊した。
切れる前に、六条の人が来て、「堤防にひびがいった」って言うてはった。「えー、ひび?」って言うてましたんや。 それから、半時間も、かからんうちに、「切れたー」って。
井口は、決壊口である六条の下流にあたり、濁流は井口の集落の東側に向かって流れた。水の勢いは強く、松の木が押し流されてくるほどで、うちの家にも、水が流れて来た。
わしら、怖くて走って帰って、「早く二階に上がれー」って言うて、家族で二階に上がりました。わしは、米俵を二俵担いで、はしごを登った。食うもんがないと、たちまち困るからなあ。そういう時は、力が出るんや。
うちは、床下浸水の被害にあった。親戚が田舟に乗って、食べ物を持って来てくれた。
決壊口からの水の流れは止まらず、半月くらいは、水が集落の方に流れたままだった。
堤防の松林が崩され、松の木が大量に流されてきた
提供:辻川信義氏
洪水で壊された家
提供:辻川信義氏
田に流されてきた木やごみなどを、除去している様子。
収穫前の稲も倒れて流されている。道には、リヤカーや自転車の自転車の通行した跡が残っている。
提供:辻川信義氏
避難所になった旧兵主小学校(現中主中学校)
2階に人の姿が見える
提供:辻川信義氏
体験者の語り (大正15年・昭和6年・昭和10年・昭和15年生まれの方)
【堤は三方が川に囲まれている】
そやから、堤の堤防は、野洲川沿いで一番長い。3km弱ある。そしてカーブが一番きつい。水が角に当たり、それが跳ね返ってこっちへあたるというところで、今サッカー場になってるあたりが一番きついところ。あっちに当たりこっちに跳ね返りで、水がジグザグに当たる。川原の林にまで水が乗って、こっちの堤防から対岸の、幸津川(さづかわ:現守山市)を見たら、恐ろしい。幅が揚子江ぐらいあって、向こうが霞んでるんや。いつも怖いから心配するところや。
大水の時は、川の水が渦を巻いてて、川底が8尺(約2m40cm)掘れるて、昔から聞いてた。誰も見たことなかったけど、この28年の時にはじめて、川の底がでこぼこになっているのを見た。
【台風の夜】
9月25日の夜から台風で、26日の夜中12時半頃に、野洲川が切れた。月夜の晩やったわ。
大水の時、上流の六条で堤防が切れたから、いっぺんに水が引いた。そしたら、大きな谷ができて山ができてて。大きな穴がボコボコ開いてた。地形が変わってた。
切れたとこは堤より上流やから、川が切れたとこに向かって、ものすごいこと逆流しとった。切れたとこの穴が大きいさかい、こっちの水がそこへ引き込まれていくんや。そやから、堤では増量してた水が、いっぺんに、ぱあっと引いた。それで、大きい穴が見えたんや。初めてわかった。
けど、昔から堤防が切れたという話は聞いたことがない。
堤防がゆるんでも、よそみたいに触らないし、ごわごわしたところでも杭を打ったりしない。
我々のところは、昔からの言い伝えで、絶対に堤防は触らんと、ゆるんできたら、川の方に木を流せ、竹でもなんでもということや。そうすると、水がゆるみ、流れが変わるから。木は堤防になんぼでもあるから、水当たりの強いところの、上の方に木を流す。すると、木に水が当たって向こうにはねる。
昭和28年の時は、特に何もしていなかった。
六条の堤防が切れたと聞いたとき、すぐに堤防に走った。竹やぶやらの木が、立ったまま流れてた。水の勢いが強うて。
水て、かまぼこみたいに盛り上がってずーっと流れていくんや。白い、波みたいになって。
その水が、堤防が切れたとこからだんだんと下へ流れていく。そして県道の土手、ちょっと盛り上がったところに当たって、分かれて広がっていく。それから、堤に回ってきた。すぐには来ない。切れて我々が堤防を見に行って、帰って来て、来うへんなあと思ってたらしばらくしてから、ダーッときた。
この時は、集落では被害が少なく、一番端の1軒だけが床すれすれやった。床下浸水。まあ、畳はみな上げたりしてたけど。
決壊したとき、堤防で水防をしてた人が大勢いたので、流された。そのうち3人亡くなった。
切れたところが墓場のそばやったから、流れてきた墓標につかまって流されて、下の方で引っ掛かって、助かりはった人が1人。
【北風の台風は注意】
北風の台風やったら、絶対に野洲川は荒れる。
北風やと、琵琶湖の水が1m上がると言われてきた。北風やと、雲が鈴鹿の山に当たって、雨が落ちる。すると、川が増水し、流れがきつくなって荒れる。その流れと、野洲川の河口が北向きやから、北風で琵琶湖の水が川に上がってきて、ぶつかって大荒れや。
【ゴーーーーーッて、もう恐ろしい音】
特に備えというものはなかった。ただ、水がくるから警戒しよかという程度で。けど、家の中でじっとしておれへんから、お互いに勝手に出ていく。
川のところに林があって、それに水が当たると、その音がゴーゴ、ゴーゴてうるそうて、寝てられへん。もう、恐ろしい音でした。ゴーーーーーッて。
けど、行ったかてしょうがない。何もすることないしね。
太い丸太が何本も流れてきてた。
ダム(青土ダム・野洲川ダム)ができるまでの話やけど、下の方では、琵琶湖の沖に流れた丸太が、水が引くとまた岸に寄せられるから、それを集めて製材屋に持って行ったりしてたらしい。それで家も建てとった。そのくらい、流れてきたんや。山に積んであった伐採した木や。まあ、山師がすぐ捜しに来たけど。持ち主の刻印が押してあるから。
ここらへんでも、橋桁や林に引っ掛かったりしてたのを、拾いに行ったりしてた。
【台風後は豊漁】
けど我々漁師は、どっちかいうたら台風のあとの漁が楽しみで、水が引くのを待ってた。堤防は切れへんと思ってるから、怖いことない。切れたこと聞いたことないから。そんなもんや。
台風の時はビワマスやら上がってくるから、野洲川の川原の中に杭を打って、川の中に魚が乗る踊場を作っとく。水が引いたら、そこをタモでかき回す。水が引いても魚は木や草やらいろんなとこに引っ掛かって、動かれへんからよう捕れる。
川は子どもの頃からの遊び場やったから、ちょっとも怖いと思わんかった。川原に水がいっぱいでも泳いでたから。
大水の時は、水が渦になって回るので、川の中の地形が変わる。そういう噂は聞いてたけど、どういうことかわからんかった。若いとき、水が引いたらビワマスやらがようけ残ってるので、切れた明くる日に、浅いと思ってタモを持って飛び込んだら、ごぼごぼごぼって沈んでいってね。そういうことやったんや。
今考えたら、危ないことやったんや、そんなこと。
【避難は】
早鐘を鳴らさはったら、年寄やら子どもらは前の兵主小学校、今の中学校やお寺に避難した。法專坊や正覚寺。
わしらは、牛がおるさかい行けへん。牛を追って堤防に上がって。夜やし、牛も寝てるから、引っ張っても動きよらへんし。
洪水の時は、田舟で往来してた。この辺はみな百姓で、田舟があった。水が引くまでやから、2・3日やったと思うけど。親戚が兵主大社のとこにあったので、舟で行ったけど、あんがい家は傷んでなかった。
旧野洲川北流の 決壊箇所付近に建てられた 水防の 「殉職者の碑」
撮影:滋賀県
松の木が倒れて流されてしまった、兵主神社の参道。
舟に乗って、撮影されている。
提供:辻川信義氏
体験者の語り 女性 (昭和7年生まれ)
【昭和28年13号台風のときは、比江にいた】
娘の時は、堤より上流の集落の比江の松林に住んでた。
昭和28年9月25日、台風13号の時は、ものすごい雨で、ものすごい北風が吹いたった。
昼すぎ、お父さんが「今日は北風がひどいし満月やさかい、普通じゃすまんやろ。」て言うてはった。満月には、災害が起こりやすいて。
男の人は、堤防へ、消防で出てはった。堤防の上には水防の倉庫があって、スコップやらどんごろす(土のう袋)が入ってた。それが、何km置きにか建ってた。
男の人らは、初めは袋に土を入れたりしてた。堤防が切れるとかなんで、堰き止めるために。そのうち、水が乙窪の橋を乗り越えてきたて、何回も何回も聞いた。
それで六条が切れたけど、松林は六条から5kmぐらい離れてるから、水は来んかった。ずっと家にいた。
【堤に嫁に来てから】
3・4回、六条の公民館に逃げたわ。公民館がちょっと高いのやと思うけど。
男の人は、堤防へ消防で出てはった。堤防の上には水防の倉庫があって、スコップやらどんごろす(土のう袋)が入ってた。それが、何km置きにか建ってた。
消防で出てた人から、堤防が切れるとかなんで、水を堰き止めるために袋に土を入れて土のう袋を作ったりしてたけど、そのうち、水が乙窪の橋を乗り越えてきたって、何回も何回も聞いた。
野洲川の川原に畑があって、かぶを作ったりサツマイモを作ったりしてた。そしたら、4年に1回ぐらい水が浸いて、大きな大きな15mくらいの穴があいて、4年に1回直さなあかん。畑にならへんから。今のサッカー場の辺りは、畑がだいぶあった。
水に浸からへんときは、ごぼうも大根もおいしいのができた。砂地で、大水が運んでくるニコ(泥)もよかったんやけど、水害の後の大きな穴を直さなあかんかった。
ほんで、スイカもようさん作ってて、採る時分に大水やったから、その前に採りに行った。自動車もあらへんし、肩で、天秤棒で運んで。
あの時分は、スイカが大事やったな。盗られる盗られるいうて、みんな夜番をしはった。今はスイカなんか、やろう言うても誰もいらん。けどこの時は、スイカは大変な値打ちもんやさかいに、みんながこの時期に採りに行かはった。今日はあこが水浸くて、おおよそわかるしな。 夜も、ご飯食べてから当番に、畑見に行ってたんや。
災害写真の提供:辻川 信義氏
【安冶(あわじ)】
干拓地堤防からみえる、野田沼方面の水没した家と田
安冶から見る、水に浮かぶ須原の集落
【野田沼干拓地】 (田舟より写す) 干拓地のため土地が周辺より低いため、水がはけなかった
激しい風雨に壊された家
水没し、壊れた屋根から脱出する住民
決壊数日後も水は引かず、屋根に畳やムシロが干してある
冠水したけど、稲穂は埋もれてないので、田舟で田刈り(稲刈り)
【須原(すわら)】
須原の西徳院前より見える家に付いている水跡
床上浸水かと思われる集落
舟より、決壊箇所方面をみるー向かいは三上山
浸水した一帯。舟より、兵主神社の森をのぞむ