【普段の備え】
梅干、たくあん用意しとけ、炊き出しのため。
撮影場所:野洲市小南 撮影者:岡野征朗
【田舟】
昭和34年伊勢湾台風時、稲を運ぶのに使っていた田舟〔長さは1間反(約3.0m)〕を、消防団が救助用に使用していた。
【琵琶湖から来る水】
吉川の湖岸沿いには、田んぼと畑があった。そのため、琵琶湖の水位が上昇すると、湖岸の田んぼに水が入るため、農作物への被害があった。
大水の時は、野洲川から流れてくる川の水と、琵琶湖から来る水の両方への警戒が吉川では必要であった。明治29年の琵琶湖洪水の時には、琵琶湖の水位が高くなり、野洲川の堤防まで避難した。
【みの、ふんどし、わらじ】
堤防での水防活動は、みの、ふんどし、わらじで行った。水防活動中に水にぬれて危険になっても、簡単に脱いで逃げられるようにするため。
【北風】
北風が吹くと、水害に対する警戒をした。北風が吹くと鈴鹿山脈に風があたり、上流で雨が降るため。
【川下へ逃げる】
堤防決壊時に堤防にいた場合は、川上の方に逃げるのではなく、川下へ逃げることが大切である。
決壊時堤防は、順に上の方へ崩れていくことを覚えておくべきだ。
【井口樋】
六条との境付近にある井口樋のあたりが一番危ない場所。いつも警戒していた。
【過去の決壊場所】
井口には、「キレショ」、「がけ」、「ほんがんじ切れ」と呼ばれる場所がある。これらの場所は、過去に水害があったことを示す呼び名である。
【堤防の強化】
井口の堤防は、堤防の中段の藪の部分を広くとり、堤防を高くしていた。古文書にも、堤防のかさ上げをしたことが記されている。
Tさんのおばあさんも、堤防のかさ上げをするための土を、竹かごに担いで運んだ経験があると話していた。
【お寺に避難】
大水の時、子どもや女性は、法専坊や正覚寺に避難した。避難の合図は、お寺の鐘だった。
【対岸の頑丈な堤防】
堤で注意する場所は、本願寺の樋(狩上神社の東側)と滝の鼻(堤の集落の西側)。この二ヶ所は、川の大きく曲がる部分に位置し、さらに水が強くあたる場所だった。
堤の対岸にある津田と幸津川の堤防は頑丈だった。大水になっても、対岸の堤防はぴくりともしなかった。津田の堤防に当たった水は本願寺の樋に、幸津川の堤防に当たった水は滝の鼻に当たる。
そのため、本願寺の樋と滝の鼻は、大雨になると注意する場所であった。
【昔のうわさ】
昔から「大水の後、川の中に渦ができ、川底が8尺(約2m40cm)掘れる。」と聞いていたが、本当のところはわからなかった。
しかし、昭和28年台風13号の時、上流が決壊して、ぱっと水が引いたら、本当に川底が掘れていて、ぼこぼこだった。
昔の人が語っていたうわさは本当であるということが、その時はじめてわかった。
【堤の堤防】
堤は、集落の三方を川で囲まれている。集落を囲む堤防は大きく、堤防と集落の間には、約80反ほどの雑木林と田畑が広がり、高川原とも呼ばれていた。現在は、野洲川歴史公園になっている。
川底や護岸は、石やコンクリートで舗装され、蛇かごも設置されていた。また、川の中には大きな杭を二列に並べ、水の流れを弱めていた。
堤では、家屋のかさ上げなどはせず、堤防の強化に重きを置いた対策を行っていた。
【堤防で杭を打たない】
堤では、先人から「堤防がゆるんできても、絶対にさわってはいけない」と聞いていた。もし、杭を打ったら、その場所から堤防がゆるむからだと言われていた。
そのため、大水で堤防から水が漏れてきても、杭を打たなかった。堤防がゆるんできたら、絶対にさわらずに、木流しを行い、水の流れをゆるめた。
【北風は絶対に荒れる】
台風の時、北風が吹くと特に警戒を強める。先人から、「北風の台風は、絶対に荒れる」と聞いていた。北風が吹くと雨は鈴鹿山に当たり、すぐに川に流れ落ち、水の流れが荒くなるという。
また、北風が吹くと、下流に水が流れにくくなるため、水位が1メートル(三尺くらい)上がると言われている。
【いつも水が来た】
毎年、1年に一度は大水があり、堤防と集落の間の高川原に水が流れこむことがあった。川原に水が入ってくるため、川幅が広くなり、対岸がかすんで見え、とても怖かった。
しかし、堤防が強化してあるため、大水になっても危険だとは思わなかった。大水の中、川で泳いだり、上流から流れてくる材木を拾ったりする人もいた。