【日野川沿川の被害】
9月22日ごろから近畿地方の広範囲で暴風雨区域が広くなり、県内でも各河川は急速に増水し、氾濫・決壊した。
風雨の収まった25日夜10時頃、日野川の浄土寺地先の堤防が決壊し、洪水は沿川の浄土寺・倉橋部・上畑・馬淵の集落から、国道8号、さらに旧国鉄の線路を越えて近江八幡駅方面へ、広範囲に広がっていった。
決壊口近くの浄土寺で倒壊家屋が出たほか、一帯の家屋は床上床下浸水した。
当時の農業にはまだ農機具がなく、力仕事に牛は大事なので、まず最初に牛を避難させた。
田んぼは一面冠水。水が引いた後にはニコ土(つち)という泥が大量に残り、泥をかぶった刈り取り間際の稲は、泥水を吸って臭くて食べられなかった。
ニコでは米は取れないので、田んぼのニコは皆で協力して運び出し、次の田植えになんとか間に合わせた。
【地域の状況と言い伝え】
このあたりでは、北返しの風が一番怖い。まともに鈴鹿山脈に当たって、鈴鹿の山に降った雨がみな日野川に流れてくる。それで日野川の水量が増えて、堤防が切れる。
昔は、木がいっぱい茂ってて山が水を抱えてたから、それが後から後から出てくる。
大量の水で、ひどいときは堤防が揺れる。ちょっと動いてるようなかんじで。ほと、プチプチ大きな音がする。堤防の竹の根の張ってるのが、切れる音や。
堤防が危ないと思たら、下(しも)へ行け。堤防て、上(かみ)へ上へ切れるから下へ逃げなあかん。
災害発生当時、旧馬淵村職員だった住民の「災害の記録」
(クリックすると、記録をPDFで見ることができます)
【新巻町の水害体験】住民の男女10名(聞き取り日:令和元年10月21日)
この調査は、関西大学景観研究室と協働で行いました。
・日野川は下流側から上流側に向けて北風が吹くと、鈴鹿山脈にぶつかって雨雲ができて大雨の原因となる。
日野川沿いの堤防は、近江八幡側(右岸)より竜王側(左岸)の方が高いため、大雨時には右岸側が遊水地として機能する。新巻町より上流の妹背の里周辺は無堤区間で、増水時は遊水地の役割を果たしている。
・昭和28年、台風13号による大雨で日野川が増水し、9月25日午後8時30分頃、新巻町内の日野川右岸堤防の中間地点が決壊し、田地に大量の水が氾濫した。さらに続けて新巻町内で3か所決壊し、その水の影響もあり、浄土寺堤防が決壊した。
洪水は下流の倉橋部、馬淵町方面さらには北側のJR線付近にまで及び、新巻町には下流側の堤防決壊箇所から、日野川の氾濫水が侵入してきて、住居は床上浸水、田畑の浸水深は、堤防の高さくらいにまで及んだ。
下流側の決壊箇所から流入した氾濫水と、上流側の決壊箇所から流入して排出できない氾濫水が、集落内で押し合う状況が何日か続いたため、新巻町内の氾濫水はなかなか排水できなかった。そのため、排泄物の混じった泥が滞留して、水がはけたころには家屋内に2、30cmほどの高さで沈殿、田には、バラスが4mほど堆積して地形が起伏してしまっていた。
・被害の詳細や箇所は、水害マップをご覧ください。
浄土寺町寿会会員のつどいにおける体験談記録(開催日:平成24年11月12日)
日野川決壊という大惨事を体験された21名の方々が、つどいで話された内容をまとめてあります。
(クリックすると、記録をPDFで見ることができます)
体験者の語り 男性 61歳(昭和22年10月生まれ)聞き取り日:平成21年7月4日
当時、6歳。夜寝ていたら、抱きかかえられて山沿いの高い家に避難した。
自分の家は床下浸水で済んだが、3日ほど水が引かなかった。やっと引いても、ドロドロやった。
日野川の高水敷に古くからのお地蔵さんがあって、大雨が降ると、堤防の上からお地蔵さんのどこまで浸かっているかを見る。お地蔵さんならみんな知っており、どこまで水がきてると言えばみんなよく分かるので、逃げる目安にしていた。小さいときから、見たり聞いたり、親からもよく聞いて知っていた。
今は大雨が少ないけど、お地蔵さんの足元ぐらいまで水がきていることは、たびたびある。お地蔵さんが頭まで浸かったのは、過去3回ぐらいと聞いている。。
かつては、お地蔵さんで水が増えてくる様子を観察していたが、今は、安吉橋の量水標(橋桁に設置されている)をスマホで見られるので、この言い伝えは、風化しつつある。
体験者の語り 男性85歳(昭和9年6月生まれ)聞き取り日:令和元年11月13日
【命がけで洪水の中へ飛び込んだ】
安吉(あぎ)橋は、通りやすいように堤防より橋が低かったので、そこから水が溢れてきてた。すごい勢いで、道路へ吹き上げてくるんや。膝ぐらいまで浸いてた。その頃は、車て無いから、歩いて渡りやすいように、橋桁が低いんや。
消防団も集まってたけど、その水を止めに行くもんがない。水の勢いがすごいから、危ないし怖い。けど、その勢いで堤防が削られて切れたら、倉橋部がえらいことや。
それで、私は止めにいった。命がけやった。
私は若かったし、藁縄を自分の体に括って行った。流されたら引き上げてくれいうて、もう、必死で水の中に入った。
その時分は土のうてないし、むしろで作った「かます」を必死で1mほど積んだら、日野川の水が引いてきた。おかしいなと思ったら、浄土寺が切れたていうことや。
ほっとして在所の方を見たら、水で真っ白や。浄土寺からの水が流れてきてて、えらいことや。
もう、安吉橋の県道が、押し寄せてきた水で通れへん。水をせき止めに行ったんはよかったけど、今度は帰るに帰れへんねや。
それでも帰らな。安吉橋も水の方が先に来て渡れへんかったけど、その中を渡って、切れてない対岸の竜王の方から帰った。
竜王町の弓削(ゆげ)は水が浸くことが多いんで、信濃の方から祖父川を渡って、橋本から西川を越えて、国道8号線の西横関に出た。夜中や。途中から自衛隊(当時保安隊)の車がロープを引いて、誘導してくれはった。
竜王の方も、大雨やから水は流れてたけど、氾濫してないからそれほどでもない。けど、弓削はどんと浸いてた。
もう、国道も胸まで浸いてたんで、深い深いし下見えへんから、渡るのに大変で。杖みたいなん持って、深さ図りながら深いとこへ落ちんように歩いてた。流されたらえらいことや。
とにかく、帰らんとしょうがない。自分の家も心配で。
帰ったら、相当な水で、家の小屋にも水が入って、牛が浮いてた。
国道8号線で胸までの水やから、馬淵も相当浸いてたと思う。低い家は、床上浸水。
家族は、両親と私。長男やから残ってた。もう、必死やから水の中に入ったけど。
明くる日はお天気がよかったから、家財道具やら干してた。
その後の後始末が大変で、水が引いて残ってるのはええ泥やけど、縁の下なんか、そのニコス(泥)をこそげて取らな、取れへん。何日も皆に手伝ってもらった。
田んぼは、浸かって泥だらけで、それを乾かして稲こきするけど、コメは臭うて食べられへんかった。
体験者の語り
【日野川が、新巻(しんまき)で切れ、浄土寺で切れた】
昭和28年9月23日までは、晴天が続いていた。
しかし、翌24日になり、雨が降り出した。25日には風も加わり、人伝いに、「どうもこの風雨は台風らしい」と聞いた。どの川でも水位が上昇し、堤防いっぱいまで水がきていた。
25日午後11時5分、新巻(しんまき)で日野川の堤防が約100mに渡って決壊した。
収穫前の稲があった田んぼや畑、野原は水浸しになり、集落にも水が流れてきた。新巻は山と日野川の間に集落があり、堤防から溢れた水の逃げ場が無く、高台にあった家でもふすまの高さの8割ぐらいまで浸水した。
新巻に溜まった水が加わり、浄土寺の方に流れたため、浄土寺でも日野川が決壊した。新巻の水と日野川の水がゴミや岩混じりで流れ込み、田畑や集落が浸水した。
当時の安吉橋(あぎばし)は、馬車や牛などが渡るために、堤防より低い位置に架けられていた。その低くなっている部分から水が溢れ出し、国道、県道などに水が流れてきた。
「橋から水が出てる。止めに行かないと。」と、見張り番の人が知らせに来た。
【堤防に出ていて、取り残されたが】
青年団や集落の住民約30人が、米俵の中に砂利を詰めて土のうをつくり、堤防の低くなっている部分に2mほど積み上げた。
その時、浄土寺から早鐘が聞こえ、のろしが上がっているのが見えた。それにより、浄土寺で決壊したということがみんなに伝わった。みるみる水位が下がっていき、すると間もなく「ゴォー」っという地鳴りが聞こえてきた。倉橋部の田んぼの中を水が押し寄せてきた。
安吉橋付近の堤防には、水防活動をしていた30人程の人達が取り残されていた。
自分たちの家は、堤防からすぐの場所にあるので帰りたかったが、田んぼの中を濁流が流れていて、帰ることが出来なかった。
安吉橋には木やゴミが引っかかっていたが、橋自体は大丈夫だった。
翌朝、取り残された堤防に、安吉橋を渡って竜王町の人が、「あんたら大変やったなあ。」と、おにぎりや温かいお茶を持って来てくれた。
竜王町の人に案内され、蒲生町(現東近江市)を回って、翌日のお昼頃にやっと家に帰ることが出来た。
洪水後、ほとんどの田んぼには土砂、砂利、流木などが堆積していた。その復旧など、町が元の姿に戻るのに、おそらく10年はかかった。
【にしき劇団の人たちが濁流に】
毎年収穫前のこの時期に、東北から旅芸人の一座、「にしき劇団」が公演に来ていた。9月21日から23日まで時代劇などの興行を行った。3日間の予定だったが、住民からのリクエストでもう1日残ってくれることになった。
20名ほどの劇団員の寝泊りに、浄土寺の住民が自宅を提供していた。
雨が降り続いていたこともあり、集落の人は高台へ避難するよう声を掛けたのだが、まさか堤防が決壊するとは思っていなかったのか、様子を見ると言って呼びかけに応じず、彼らは留まった。
25日の夜、日野川の浄土寺堤防が決壊し、数百ⅿ離れたその家を直撃し、家は濁流に呑み込まれて倒壊。近くの浄土寺の会議所も倒壊。
旅芸人たちは、倒壊家屋の下敷きになったり洪水に流されたりして、消防団が救出に向かおうとしたのだが、暗く、雨も降り続いていて、捜索が困難だったため、翌日に改めて行うこととなった。
そして翌日、一晩中木にしがみついていた人や、草につかまっていた人などを助けることは出来たのだが、結果的には劇団員20人程のうち、6人の方が亡くなった。
【地域の結びつき】
雨足が強くなりだした時から、交代で各町の区域内の堤防と、日野川の出水量の状況を見廻りに行き、その都度集落住民に知らせて、万一の時には、いつでも安全な場所へ避難できるように、周知徹底していた。
このような大きな被害をもたらした水害であったが、命を守る知恵が備わっていたため、集落の人は1人も亡くならなかった。
床上浸水した家も多かったが、倉橋部など日野川の沿川の村は、昔から対岸の竜王町の村との結びつきが強かったため、災害直後から、対岸の住民が安吉橋を渡り、炊き出しをしてくれるなど被災者を助けてくれた。
左ー叺(かます-むしろを2つ折りにして袋状に縫い、閉じる)石などを詰めて、土のうのように使った。
右ー俵(たわら-わらを円柱状に編んで作った袋)提供:県民
犠牲になった旅芸人の慰霊碑 (県道14号沿い)
体験者の語り 女性82歳(昭和12年7月生まれ)聞き取り日:令和元年11月13日
上畑のお寺のそばで、4人姉妹と両親の6人で住んでた。
台風は、私が中学を卒業した年でした。
父親は、堤防へ出てたけど、浄土寺が切れたいうて帰って来た。ちょっと高いお寺の境内に、牛を繋ぎに行ったりしてる間に水がきた。
私とこはちょっと高かったんで、庭にタラッて水が入ってきただけやった。
明くる日に、まだ水は引いてなかったけど、倉橋部あたりを見に行った。
上畑の一番低い家は、雨が降ったら怖いいうことで、早めに天井からロープで仏壇を吊っとかはった。あとで見に行ったら襖の3分の2ほど、床上1.2~1.3mぐらい浸かってたから、吊っといてよかった。平屋やし。
明治29年の時、上畑の西の方の堤防が切れて、その前の家が流されたというのを、言い伝えで聞いてるので、大雨が降ったら危ないということで、そうしはったと思う。
その時分、青年団の女子部があって、復興作業で河原に奉仕に行ってた。川の中は砂利だらけで、その砂を運びだすための「かます」に使ったりする縄を綯(な)ってた。2人で組になって。
昭和28年当時は、水道もなく、日野川の水を取り入れて生活用水として使っていた。水害の時は、上水も下水も一緒になってしまった。
体験者の語り 男性85歳(昭和9年3月生まれ)聞き取り日:令和元年11月13日
青年団やし、その晩安吉(あぎ)橋まで見に行ってた。20歳や。
浄土寺が切れたて聞いて、走って戻ったけど、堤防からうちの集落へ下りるのに、もう水はダーッと流れたった。道はわかったるさかい下りたけど、胸ぐらいまで浸いた。堤防の下は低いでな。
安吉橋には、ようけ詰めてはった。みんなが水の量を見に行かはる。
水神さんいう神さんがあって、青竹を切って、お札(ふだ)を挟んで、危険個所に立ててた。そういうことを町内でやってた。まじないみたいなもんやけど。
上畑町内は、40cmぐらい水が走っただけや。在所は高いし、水は下へ下へ、馬淵の方へ流れるから、床下浸水がほとんど。けど、低い家は、仏壇上げたりしてはった。
日野川は天井川やからこの辺は砂地で、堤防自体も砂みたいなもんやから、切れやすい。明治29年にも切れたて聞いてる。
切れんでも、堤防の下から水が湧いてくる。伏流水や。
今でも噴いてる。「ふけだ」言うてね、日野川が増水して上がったら、噴き上がる。光瑞寺の横。寺の西や。
【馬淵町の状況】
馬淵の八幡社の鳥居の道から、東は高い。西は低い。お寺が2か所あって、その境界のあたりから西は、ほとんどの家が水浸きやった。
体験者の語り 男性92歳(昭和2年9月生まれ) 聞き取り日:令和元年11月13日
私は、浄土寺が切れたとき、まともに水をもらいました。
今はもうないけど、当時は、日野川の堤防の手前、宮さん(今宮神社)と町内との真ん中ぐらいに、水除けの低い「要害堤防」いうのがあった。日野川の水が溢れたときでも、その堤防で防いた。
けど、浄土寺が切れたときの水は、それを超えてきた。
うちは馬淵の旧字の新在家の一番端で、倉橋部町から一番近いので、その水がまともに当たったんや。今は南新在家の町ができてるけど、その時は何もなかったから。
水がきた~言うたら、すぐ家の前に水がきた。
宮さん(今宮神社)があって、そこはちょっと高いけど、その宮さんをよけて、まともにきた。
うちの家もちょっと高いんやけど、その高い屋敷の中をサーっと水が通った。
で、しばらくしたら腰ぐらいまでの水がきた。段差で水が来る。そら、怖い。
私とこは床下30cmぐらいやったけど、裏の家は水に浸かった。
水は馬淵までずっと広がって、国道8号線のとこの馬淵の宮さんの前の川の方まで、ザーッと流れた。国道でも、かなりあったん違うか。通れへんかった。駅まで行ってるよ。
倉橋部の安吉(あぎ)橋から見たら、ずーっと馬淵から近江八幡の駅まで、水ばっかりやったて聞いてる。
それで、災害やから水はしようがないけど、1番始めの家やから、なんでも流されてくる。蛇も流れてきて、戸閉めてるのに、家の中にいっぱい入って来よる。仏壇の中にも入ってきてた。
体験者の語り 男性89歳(昭和5年11月生まれ) 聞き取り日:令和元年11月13日
私は24歳で、蒲生郡馬淵村青年団やったので、村長の命令で役場へ集合した。
東川の堤防が1番危ないいうことで、ほとんどの人がそっちへ行き、私ともう一人は、浄土寺へ応援にいった。
自転車で、倉橋部を越えて、山ぎわの道を浄土寺に差し掛かった時に、「堤防が切れた。危ない。」という声が聞こえた。その時、稲光がピカッと光って、水がすぐ石段のように、段階的に増えて押し寄せてきた。
洪水の中、人が流れて来たので、急いで手をつかんで土手へ引きずり上げた。
で、わしらも山手の方へ逃げてたら、濁流に押し流されて水死寸前の2人を発見し、危険を承知で飛び込んで、1人ずつ抱えて土手へ引き上げ、土手に待っていた消防団に引き渡した。
家に帰ったら、家はドボドボの水浸きで、ふすまの引手ぐらいまで水が浸かった跡があった。仏壇が3分の1ほど浸いたった。床に乗ったら、バーッと沈むくらい浸いたった。
弟と2人、寝てて青年団の集合がかかって、そのままで出たから、ふとんはもうドボドボで。
両親はいたけど、もう、ぼやっとしてたわ。昔のくずや葺きの家やし、2階はなかった。
この辺は、麦を作ってたので、ヨシと違って、麦わらで葺いた麦わら屋根の「くずや」。そやから、ツシに上がったりしてはったけど、うちは、隣がちょっと高かったから、そこへ2人とも上がらしてもらってた。
牛がいたからどうしようかと思てた、言うてた。私も出たきりで様子がわからへんから。
もう、ぼさっとしてたわ。決壊したこともわからんまま一気に水がきたし、どうすることもでけへん。堤防が切れたのは、台風がいって、風がちょっと収まってからやったから。
私は、激流の中に飛び込んであほやと言われたけど、人の命を助けるのは大事なことや。夜で暗いから、水の深さやらあんまりわからへんのもよかった。昼間やったら、怖くてでけへんかったかもしれん。
体験者の語り
昭和28年9月洪水の時、中学を卒業して自警団に入っていた。当時18歳か19歳位で、7名の分団で、安吉(あぎ)橋から東川付近の、日野川堤防の警戒に当たっていた。
空が光るのが見えた後、水が引き始めたため、下流で決壊したのだと思い、帰路についた。帰りは堤防沿いに国道8号線横関橋まで下り、国道沿いに馬淵村へ向かった。
帰る途中で、上流側から、屏風が立っているような様子で水が押し寄せ、頭まで水をかぶった。徐々に水が深くなり、胸まで水がきていたので、肩を組んで馬淵村を目指したが、旧白鳥川のところからは流れが強く、歩いては渡れない状態であった。八幡の本署からゴムボートで救助に来たが、役に立たず、最終的には、一人一人ロープをくくりつけて引き上げてもらった。
家へ帰ると、家は浸水しており、家族は近くの真光寺に避難していたが、牛は自宅に繋げたままだった。牛の首まで水が上がっていた。
濁流は、日野川のそばだけでなく広範囲に広がったため、刈取前の多くの稲が被害を受けてしまった。田んぼには多くの土砂がたまり、復旧には長期間を要した。
体験者の語り (昭和16年生まれ)
私は近江八幡の馬渕町に住んでいたが、近くの浄土寺町で興業をしていた芝居小屋の一団が、水に流されて亡くなったという。その時あふれたのは日野川だった。
自分の家は高台にあったので、特に被害はなかったが、近所には、大人の胸まで水が来た家もあった。
当時、国道8号は土だったので、水が引いたあとも道路がぐしゃぐしゃになっていて、通るのが大変だったことを覚えている。
体験者の語り ( 昭和18年生まれの方の体験)
【JRの線路を歩いた記憶】
昭和28年、私が小学校2、3年生だった気がします。浄土寺辺りが決壊したって聞いてます。
朝起きた時に、ジャージャーと水の音がしてて、水がJRの線路を盛り越しているのは知ってる。その梯子状態(JRの線路)になった所を歩いた記憶があります。JRが切れないうちは、ザーっと水があがってきて、JRの盛土が切れて水が引いた。
そして、子どもの頃、日野川のどこが切れたって話を家の中でよく聞いた。切れる場所によって、水が来る場所が分かるから。
体験者の語り ( 昭和10年生まれの方の体験)
【過去の水害】
うちらのとこは、昔から何回も水にかちあたってる。
私の祖父のその前には、蛇砂川切れがあって、水がザーっときて、1週間程毎日水がきたらしい。それで懲りてるから、毎年5月と9月ぐらいに雨が降ると、3日~4日降ると家の床をあげてしまって、畳を積んで、箪笥も積んでしまうんです。これを毎年準備してたんです。
日野川の東側が切れたら、絶対に浸かるんです。西側が切れた時は大丈夫だと思うんです
【日野川が切れた】
宮さんのところから僕の家では、1m50ぐらい地盤の高さが違う。浸かったのは浄土寺寄りで、浄土寺が切れたって聞いてから、1時間後に水が来た。
床上浸水したのは7軒ほどです。
その時私は18歳で、自警団に入っていたので、役場に情報を聞きに行った。そこで「浄土寺が切れて、倉橋部から馬渕に水がいって、あちこちで浸かってる」って聞いたので、走って家に帰ってきた。家の中で牛を飼っていたから、飼料とかを家の「つし」、つまり天井裏にあげました。
誰かが「水がくるぞ」って集落内を言い回ってた。
日野川の浄土寺が切れたと聞いてから1時間後に水が来て、近江鉄道の線路を越えて、ジャージャーと水の音がした。いっぺんに30cmも水がくるから、1回、2回、3回となると1m近くになる。最後は胸ぐらいまできたって聞いてる。
私は、牛を宮さんに連れて行って、松にくくって、自分はまた家に戻っていった。
宮さんが町の中で高い場所にあるから、みんなそこに牛をつなぎにきた。どんどん水が増えてきて、家に戻って2階に荷物をあげたとたん、水が来た。ちょうど、23時頃でした。
空にはお月さんが出てて、星も出てた。台風が抜けて、もう雨があがったと安心していた時に、切れた。
桐原に水が浸いたと聞いてから、見てる間に水がきた。桐原から言えば、この土地は一番低い。倉橋部(近江八幡市)から馬渕(近江八幡市)を通って桐原にいって、桐原からドーっと水が国鉄に沿うて来た。
【堰になってた国鉄の線路が崩れて、水が引く】
どんどん水が上がってきて、引き戸の10cm上まできたら、ごそっと水が引いた。国鉄の線路が切れた。
わしは家の中にいたからよかったけど、近所の人は避難した。家の裏にぷかぷか生活用品が浮いていた。近所の人たちは、親戚の家や、水に浸いていない高い場所に逃げた。堆肥やら色んなものが流れてきて、ひどいもんやった。昔は汲み取りやったし。わしのとこは、切れた濁り水が流れ込まず、たまり水が押してきてるから、まだ水が綺麗でマシやった。
黒橋川のほうまで水がきたらしい。「ありお(小字名)」という所に1軒だけ家があって、そこに住む人たちは家から逃げられずに、低い家やったから屋根の上に3人ほど避難してた。
その人たちを、田舟で助けに行った人がいた。田舟に乗って、その屋根に避難している1軒家まで行って、助けた。その人らは、消防をしていた人だった。濁流の中、助けにいっていた。
体験者の語り ( 昭和7年生まれの方の体験)
その当時、私は短大生で、その日は家に帰れなかった。
あれは晩やったな、夜中に切れたんや。野洲川の鉄橋が浸かりそうになってて、電車が止まってしもた。自分がどこで寝てたのか忘れたが、その日は家に帰れなかった。
次の日、朝一番で帰って、近江八幡駅に着くと、駅前に田舟が止まってた。うちの家の辺りは全然浸かへん。駅の辺が浸いて、線路がねぶりかけた。堤防に水がドーンと当たって。
ほんとは乗り越えてしまうところが、水は浸くばかり。それで「誰かが線路を切った」という噂を聞いている。
国鉄の線路周辺は、全部田んぼやった。二度とこんなことがあったら困るということで、国鉄が、川からこの踏切の所までの側溝を、コンクリートで固めた。
一面冠水しているので、国鉄(現JR)線路上を歩いて移動する人たち
前方の家々は駅前
提供:鷹飼自治会
西浦地区。国鉄(現JR)線路から近江八幡駅を望む
日野川浄土寺地先堤防決壊により、線路の盛り土が流れてしまった
提供:鷹飼自治会
手前堤防決壊口:滋賀県所蔵
堤防決壊口から溢れる激流:滋賀県所蔵
Bさん:それでよけい決壊しよるやろ。
Aさん:堤防の土の粘りがない。力がないっちゅうの。この一帯がそうゆう土質なんです。そして、地域の消防団や青年会の人たちで、この山から土嚢を作って、それを運搬して決壊したところにほり込むんやけど。なんせ、水位が2mほどあるから、土嚢をほり込んだって、水圧で流されてしまう。そうゆう手だては人力では間に合わなくって、完全に水没をしてしまった。そして、お宮さんの森の木がみんな倒れてしまった。
Bさん:それから1ヶ月ぐらいは、排水にかかった。水を排水するのはポンプ排水を使った。
Aさん:これは農林省からで。強制排水。
Bさん:そして、堤防の復旧は、決壊する前と同じ原形。
Aさん:その後の手当があったのは、堤防の湖側に矢板を打って補強はしたんだけど、もともと堤防の大きさというのが当時のままやな。そやから、狭い堤防なんや。このお堂(弁天さん)が浸かった時の写真ですが、このお堂はもともと水(湖)の中にあったんですわ。その後、干陸してから、この建物(左の建物)が造られたんだけど、堤防決壊によって元の湖になっているから、お堂は元の状態になっている。けど、この写真は、建物は水没しているわけ。
Bさん:この時には、小中の湖干拓地に入植された人たちの人家も、ほとんど浸水しました。
Aさん:排水は、ここの位置。ここに信号があってね。ここにポンプをズ~っと並べてね。
Bさん:大きなポンプが8台ほど並んでね。
Aさん:そして、この水をポンプアップした。民家には被害はないが、田んぼに被害があって、田んぼは全滅。私たちは直接被害を受けていない地域だから、民家がこの被害によって水没したことはない。
Bさん:時期が9月ぐらいやけね、完全に田んぼが冠水して、田舟から稲穂が見えるんです。ここは水がなかなか引かへん。私は、「水がどれくらい引いたかな」と見に行っていた。
Aさん:決壊してから、干拓前の元の湖になってしまうのに、一昼夜ぐらいかかったかな。だからその間に避難ができた。