【縁切り地蔵】
堤外地にある縁切り地蔵が水没したら避難準備せよ!(日野川が増水して地蔵が水没したら、農耕用の牛をまず避難させた)。
【避難命令を出す目安】
「昔は堤外農地にある地蔵のどの辺りまで水がきているかが、地元の退避命令を出す目安になっていた。
地蔵は堤防が出来る前(南北朝時代)からあり、今でも地蔵のある場所は改修されていない。
【コンクリートの柱】
コンクリートの柱があり、洪水時には水が入らないように板をはさんで土嚢を積み、即席の堤防を作れるようになっている。
【キレショという場所】
“キレショ”と呼ばれている小字がある。そこは、堤防が決壊しやすい場所だと言われている。
【北風は注意】
琵琶湖で北風が吹くと、たくさん日野川に水が溜まる。
【堤防に足がボコボコ入る状態は危険】
堤防が、液状化みたいに足がボコボコ入る様になったらあかん。杭とか打っても関係ない。刺さらないから杭がきかない。
【逃げる時は下流に】
堤防が決壊したら下流に逃げろ!!堤防は上流上流に切れてゆく。
【門口は絶対に開けるな】
水害に遭うたら、門口は絶対に開けてはいけない。戸は締めとくように。開けたら、家の中に水が入る。
【堤防に入る時は草履か素足】
親父に言われた。「堤防に入る時には、長靴を履いたらあかん。
いつ決壊するか分からへんやん。靴を履いとったら逃げられん。素足か草履りで。」
【堤防が決壊したら下流へ逃げろ】
澄んだ水だったら決壊しよらへん。濁り水だったら決壊する。
決壊したら、水が上流へと上がってくるので、必ず川下へ避難しろと先人たちは言っていた。
【北風は雨をよぶ】
日野川は、北風が吹くと恐い。山にあって、水位が高くなる。
日野の綿向山にあたると、雨を呼ぶ。
【堤防で火の番】
堤防が決壊しないように、かつて堤防が決壊した場所で火焚きをし、監視する。一種の魔よけ。
【水の色が教えてくれること】
「水の色が変わってきたら避難しろ」とよく先人から聞いていた。
【危険を知らせる鐘】
堤防が危ないときや決壊したときに、半鐘を鳴らして集落の人たちに危険や避難を促す。
【雨が数日続くと、どこかが切れる】
■毎年、数日雨が降ると、水が来るいうて2階に飯やおかずや水を持って上がったりしてた。
■雨が4~5日降ったら、どこかが切れるとおじいさんから聞いていた。だから土地が低いところでは畳を上げて、1石半ぐらいの桶を反対向けに4つ置いて、その上に戸を置いてその上に畳を積んだ。天井ぎりぎりになって、その上に箪笥の引き出しを置いた。
■大きい雨の時は、日野川のことを考えろて言われてきた。普通の雨やったら、床下ぐらいまでしか浸かない。
■9月に台風や大雨がきたら、考えろ。5月頃の雨は、田の口が開いてるから田んぼに水が入り、大丈夫。
9月頃は田の口が閉まってるから、川に水が流れるから気をつけろって。田んぼが少なかったら、全部流れ出てしまう。
【鷹飼の水害の備え】
■お米は今は袋に入れて貯蔵しているが、昔は大きな缶に入れるように、やかましく言われた。
■昔の家は、水が浸くということが分かってたから、仏さんの天井が抜いてあった。上に滑車が浸いてて、上に引っ張りあげるようになってた。
■水害対策で昔の家を建て替える時、地盤が低いところに建っている家は、東海道線と同じぐらいの高さまで1平方メートル0cmほど床をあげ、水が来ても下だけ流れるようにした。近所もみな同じように。
【65年に1回は水が来る】
■65年に1回は水がくることをじいさんから聞いていた。
■何十年に1回は大水がくるっていうのを覚えとけって言われた。
【川ざらい】
昭和45~50年ぐらいまで、4月と10月になると倉橋川(通称:新川)の川掃除を行い、川を管理していた。川掃除のことを「川ざらい」と呼ぶ。
【堤防で治水対策】
八反田(小字名)の田の中に堤防を造り、治水対策をしていた風景が、以前まで残っていた。
【今でもよく浸かる場所】
近江八幡駅前の、平和堂のところは今でも浸く。
【心構え・備え】
・明治29年に日野川の堤防がズタズタ切れたと小さい時から聞かされてきたので、「危ないと思ったら逃げよう」という意識がみんなにあった。
・「水害に備え、山の方へ家を建てる」、「水害時には高台へ逃げる」ということを聞いていた。
・集落の裏が山なので、山崩れにも注意していた。
【つながり】
万が一に備え、倉橋部町内や、近隣の集落との間で決めた約束事があった。
1.危険を知らせる
水害時、集落内は早鐘を叩いて歩き、近隣の集落にはのろしをあげることで危険を知らせた。
2.情報伝達
大雨が降ると、各集落で担当になっている箇所を担当の人が見回りに行き、堤防に立って出水状況などを見ていた。随時川の様子などの情報が集まり。それが自治会長通じて、近隣の集落にも伝えられた。
【水防活動】
「俵を持ってこい」と集落の人に指示を出すと、縄やスコップなど、土のう積みに必要なものを指示されなくとも持ってきて、みんなで土のうをつくって堤防に積み上げた。
【幽霊が出た】
水害から5、6年後、水害で無くなった人の幽霊が出たと噂になり、集落でお金を集め、慰霊碑をつくった。今でも台風のあった9月にはみんなで供養している。
【次の世代へ】
他の集落の人達の協力がとてもうれしかった。人の温かさ、助け合う心が日本人の文化であることを忘れないで欲しい。
【危険の合図】
危険なことが発生しその事が隣接集落にも及ぶときは、「早鐘(はやがね)」を叩いて知らせ合うことなども、集落間でとり決めされていた。早鐘は2つあり、倉橋部の集落全体に音がいきわたるよう工夫されていた。また早鐘は普段、農作業の合図に使っていた。
【家屋のかさ上げ】
家屋を新築する場合は、地盤のかさ上げをしている。(石積み)
【川の水の増減を確認するため、堤防に石を】
当時は量水標が無かったため、堤防の法面に石を置いておくことで、川の水量がどの程度増えたかを確認していた。
提供:滋賀県
【避溢橋】
新幹線の線路を建設する際、JRは築堤を望んでいたが、築堤では大雨や水害時に、盛土が水をせき止めてしまい、被害が大きくなると考えた安養寺町では、線路の下を水が抜ける避溢橋にするように求めた。
【樋番】
樋門(川の水を取水するための水門)を閉める当番である樋番は、任期一年。大雨の時に樋門を閉める当番が当たったら、一晩中でも寝ずに番をして、集落側に水が入らないように警戒していた。
【石亀】
日野川の水量が増えたときには、いつも、左岸側の『石亀(イシカメ)』と呼ばれる場所で、決壊していた。
【集落移転】
旧安養寺町では、日野川の氾濫により、度々被害を受けてきた。水害から逃れるため、明治7年までに約7~8割の人が高台(現在の安養寺町)へと移転し、明治29年の水害をきっかけにほとんどの人が移転したと聞いている。
その結果、安養寺町では昭和34年の日野川決壊の際にも民家は被害を受けずに済んだ。
【警戒】
日野川流域では、本流の河川敷より水位が上がってきたら、警戒に出ていた。
提供:滋賀県
【五重塔】
集落の近くに五重塔がある。日野川決壊の時には、その五重塔が全体の60%ほど水没した。
集落は塔よりも高い場所にあるため、民家に被害は無かった。
【馬淵町の避難場所】
馬淵では、馬淵小学校・真光寺(馬淵)・西燿寺(倉橋部)の三ヵ所が避難場所と決まっており、当時の人たちは、労働力として非常に大切な牛を、これらの高台に避難させたのち、避難していた。
【綿向山の雲】
馬淵で雨が降っていなくても、山で降っていたら日野川の水位は高くなる。綿向山の方を見て、暗くなっていたら気を付けなければならない。
【堤防の草刈りは大事】
草刈りは絶対せな、堤防が崩れてもわからへん。
堤防は、竹や草の根が張って保ってる。除草剤を撒いたら根が枯れて堤防が崩れるから、絶対、上だけ、草刈りをせなあかん。
斜めの土手で、草刈り機を動かさなあかんから大変やけど、何があっても最優先でせなあかん。草ぼうぼうやったら、堤防が崩れててもわからへんから。
【田舟で避難】
ふだん、田舟で田んぼまで移動していたため、洪水の時も高台まで田舟で避難していた。
【お米の貯蔵方法と保存食】
■下豊浦の人々は、JR沿線の周辺で米を収穫していた。そこは、頻繁に冠水する場所で、お米の収穫高が非常に悪い。そのため、一年分の米だけ生産するのではなく、翌年の夏場ぐらいまでは少なくとも保有できるように、生産や蓄えをしていた。
お米に虫が付かない貯蔵の仕方を工夫しながら、蓄えていた。
■米は冠水に備え、半年ぐらい蓄えられている。当時のお米の貯蔵方法は、松などの木材で造った「ひおとし」、「ネズミ入らず」と呼ばれる、押し入れみたいなモノの中に貯蔵していた(押し入れを木で完全に囲ったようなもの)。それを納屋の一角に置き、木と木の継ぎ目から虫が入らないように、新聞紙やら紙で目張りをし、少なくとも半年分の余裕を持たせていた。
■保存食は、災害の備えとなる。保存食は、梅干し、たくあん。
【来そうで来ない隣のぼた餅】
■雨が降ってほしくても、北西の方角に雲が出来ていると、下豊浦には雨が降ってこない。このことを、下豊浦の人たちは、「来そうで来ない隣のぼた餅」と呼んでいた。
■下豊浦から西北、南東の方角に出来た雲は、よく下豊浦に雨をもたらす。
【必ず冠水する場所】
大雨が降ると必ず冠水する場所がある。時には、1年に2度3度と浸く時もある(JRの線路周辺の田んぼ)。稲を植えたとき、梅雨のとき、稲を刈るときに降る雨は注意とのこと。
【水神さんの罰】
「川にゴミを捨てたら、川の神様の罰があるで」と、水神さんが罰を与えると言われていた。信仰心と共に、町が守られてきた。
【ゲートの管理】
下豊浦では、安土川にゲートをつくり、川をせき上げて取水しているので、農家の人たちは、洪水の時に田んぼが冠水しないように、川のゲートを交代制で管理をしている。
大雨が降ったら、担当者は夜でもゲートを開放し、川に水を流して、田に水が入らないようにして、田を守る。
普段から天候を見る勘、安土川の水量を見る勘が養われていて、それによりゲートの管理は行われている。
【女性たちの支え】
近所で災害が起こると、すぐに炊き出しの準備を行う。それぞれの区長が炊き出しを指示。
【高くたかく】
山本川の改修後、家の地盤や道路を高くした。